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仮初の一年  作者: 肺魚


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2/17

春2

 ベッドの中に横たわると、一気に昼間の移動の疲れが出てきた。深く息を吐く。すると、夜の闇の中で、ふわりと心地よい香りがすることに気がつく。よく見ると、枕元の小さなテーブルに、水差しと木のカップ、それから良い匂いのする草の束が置かれていた。ここに着くまでの宿にはなかった気遣いに、心が暖かくなる。

 それから、渡されたメモのことを思った。本当に、あのメモを信じられたらどれほど幸福だろう。この地に来たのが、やがて王太子妃に返り咲くための潜伏期間で、これが休暇のようなものだとしたら、本当にどれだけの喜びだろう。

 手の中で小さな紙片がカサリと音を立てる。本来とても美しい文字を書く人なのに、乱暴に崩された文字列は、いかにあんな短い文を綴るのが難しかったのかを知らしめる。

 ルキウスは急な婚約解消と新たな婚約、それに伴う調整に、今ごろ休む暇などないだろう。



「この度は、誠に残念ながら、王太子ルキウスと、その婚約者マルケリア・グラシエルの間の婚約を解消することとなった。王家としては、長年婚約者として尽くしてくれたマルケリア嬢に、深く感謝と謝意を伝える。王家からマルケリア嬢本人に対しての保証として、慰謝料を払う準備がある」

 頭を実際に下げることこそしなかったが、王の言葉には苦渋があった。

「マルカ……いや、マルケリア嬢。民意に負けるような王家で、本当にすまない」

 ルキウスのほうは完全に頭を下げてくる。その顔には、どうしようもなかった悔恨が滲んで見えた。喜びに口元を綻ばせる父親とは裏腹に。

「マルケリアの代わりに、すぐにでも我が最愛の娘、聖女であるロザリアを新たな婚約者としてくださるんでしょうな?」

「今はまず、マルケリア嬢との婚約解消の場だ。控えよ、公爵」

 浮き立つ気持ちを隠せない様子の父親に、王が厳しい眼差しを送る。

「念のため申しておくが、この慰謝料はマルケリア嬢個人に対して支払われるものだ。父親だからと言って、くれぐれも自由に使えるとは思わぬように」

「それは……はぁ、仕方ありませんな。持参金にでもくれてやります」

 釘を刺す王に悔しげにそう答えると、父親はそっぽを向いた。今回は議会が味方だからか、王に対しても不遜な態度が透けて見えていた。

「マルケリア嬢の義理の妹、ロザリア嬢がこの一年で強力な治癒魔法に目覚め、聖女として民たちの希望となっていることは王家も認めている。だからこその、この婚約解消だ。しかし、マルケリア嬢自体に何か瑕疵があったわけではないと、王家がそう保証するための慰謝料だということを忘れるな」

「畏まりましてございます」

 また、ニヤリと口元を綻ばせて、父親が表面ばかりは恭しく答える。王はそれを忌々しげに見つめていた。

「ロザリアを恨むようなことだけは許さんぞ」

 帰りの馬車に乗り込んですぐ、マルケリアは父親にそう言われた。

「あの子はただ、治癒魔法に目覚めてそれを民のために使ったに過ぎん。お前がもう少し適性を示していれば、ロザリアが聖女として立ったとしても、お前の王太子妃としての立場が揺らぐことはなかったはずだ。問題があるとすれば、己の資質の不足だ」

「……あの子を恨んだりなどはしません」

「それならいい。ロザリアが正式に王太子の婚約者となった後、お前は別家へ嫁ぐ手筈になっている。余計な誤解が出ぬよう、整理するだけのことだ」

 そう言い捨てると、父親は座席に身を預け、目を閉じた。

 元々、前妻であるマルケリアの母親とは政略結婚だったせいか、父親は学生時代からの付き合いだという後妻の娘であるロザリアばかりを優先していたが、彼女が聖女として祭り上げられると、さらにその贔屓は隠しようがなくなっていった。幼い頃から、マルケリアは虐待こそされてはいなかったが、家では一人ぼっちで、専用の侍女もつけられず放置されていた。三歳の頃に母親が亡くなってからは、叱られる時以外で誰かに名前を呼ばれることすら、滅多になかった。

 そんなマルケリアにとって唯一の居場所が、幼い頃に決められた婚約者の王太子ルキウスだったのだが、とうとうそれすらも失ってしまった。整理とは言ったが、実質は追い出されることと変わりはない。どんな場所に追いやられるのか、考えるのも恐ろしいことだった。

 帰宅すると、機嫌の良い義理の妹ロザリアに迎えられる。

 彼女は二つ歳下で、表向きは今の母親の連れ子で義理の娘ということになっている。しかし、母親似の銀髪に紫の瞳のマルケリアと比べて、ロザリアは豪奢な金髪に青い瞳。引き継いだ色彩から、父親の子であるのは明らかだった。

「あら、お父様と……お姉様、お帰りになったのね。王太子殿下はなんて?」

「その話はまた後日改めると言っていたが、マルケリアとの婚約は解消された。お前が王太子妃として認められる日も近いぞ」

 玄関先で立ち止まるマルケリアを追い越して、父親が笑顔で告げる。ロザリアもそれを笑顔で迎えた。

「お可哀想なお姉様。でも、仕方ないわよね。民と議会が、私を王太子妃に望んだのだもの」

 歌うように言って、くるりと回ってみせる。見覚えのないドレスは、また新たに仕立てられたものなのだろう。若い娘らしい、華やかな薄紅色とたくさんのフリルが、小柄で可愛らしい造形によく似合っていた。

「これからまた、神殿に行くの。多くの民が私の奇跡を待っているのだから」

「あまり魔力を使いすぎて、倒れることなどないようにな」

「私の治癒の魔法は特別よ。聖女の魔法だもの。魔力の消費はそれほどないの」

 軽やかに外に出ると、ロザリアは馬車に乗り込んだ。神殿に行くと、誰もが彼女を聖女として崇め奉る。それが、心地よくてたまらないのだと、いつも言っていた。

 ロザリアは十五歳で治癒魔法に目覚めてからは、拙いマナーや勉強について誰かにうるさく言われることがなくなって、その表情は活き活きとして見えた。明るく、花のある笑顔は、誰にでも好かれる。儚げな印象で、内気でおとなしすぎると言われている、マルケリアとは対照的だ。

「私は部屋に戻ります」

 それだけ言うと、マルケリアは父親の横を通り抜けて、自室へと向かった。未来の王太子妃として贈られた装飾品は、王家に返さねばならない。その整理が必要だった。何も考えずに手だけを動かす時間は、マルケリアにとっても必要なものだった。



 ハッと目を開ける。薄暗い、見慣れない天井だった。

 いつの間に眠りに落ちていたのか。つい今まで夢を見ていたような気がする。ルキウスの苦渋に満ちた顔。王の強張った顔。父の機嫌の良さそうな顔。誇らしげに、馬車に乗り込むロザリアの姿。

 今はもう、遠くて手の届かない場所にある過去(もの)たち。

 深く息を吸う。枕元の草の香りが呼吸を助ける。王都の天蓋付きのベッドよりは小さいけれど、充分に柔らかく身体を受け止める大きなベッド。まるで蝋燭の灯火のように瞬く小さな灯り。暖炉の熾火。辺境伯とラヴィアが言った言葉に嘘がなければ、ここは安心していい場所のはずだ。

 窓の外から強い風の音がする。ヒューヒューという聞き慣れたものではなく、ゴウゴウと鳴り響くような力強い音色。王都では聞き覚えのない音に、少し耳を傾けた。今を、受け入れるために。

 手のひらに握られたままの紙片が、カサカサと鳴る。握りしめて、皺のついたそれを丁寧に手で伸ばしてから、お守りのようにそっと枕元に置いた。

 もう少し寝よう。眠って、あとはそれから考えよう。ひとまず、ここは安全なはずだから。目元に滲んでいた涙をそっと拭って、再びマルケリアは目を閉じた。

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