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仮初の一年  作者: 肺魚


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春1

元鞘ものです。ご注意ください。

「安心してください。私があなたを愛することはありません」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。——ああ、ここでも。公爵令嬢マルケリア・グラシエルは、そう思った。マルケリアは、真っ直ぐな銀髪に紫色の瞳をした、儚げな印象の若い娘である。

 今日の日暮れ近くにマルケリアはこの北の辺境に到着し、着替えた直後に式もなく、必要な書類三枚への署名で夫婦となった。相手は目の前にいる、黒髪に青灰の瞳をした男、若きフィニステラ辺境伯レオニウス・アルダリオン。これは、その夜の出来事である。

「レオニウス様、その言い方! 誤解されます!」

 直後、彼のすぐそばに立っていた焦茶の髪の侍女が声を上げた。反対側に立っている、黒髪の執事も呆れた顔をしている。

 新婚初夜のはずだというのに、なぜかマルケリアは夜着ではなく普通のドレス姿のまま、夫婦の寝室ではなく応接間に通されたのだ。そしてその場には、侍女と執事が当然のように控えていた。レオニウスも、もちろん普通の衣服である。

 侍女の言葉を聞いて、レオニウスはハッとした様子で慌てて言い直す。

「えーと……つまり、あなたを異性として意識することはない、ということで」

「かえって悪化しています!」

「旦那様、その言い方では、まるでマルケリア様に女性としての魅力がない、と言っているように聞こえます」

 侍女と執事が、口々に責めるようにレオニウスに言う。

「いや、そんなつもりで言ったわけでは……!」

 レオニウスは、慌てたように手を顔の前で振った。悪意がないのは表情からも態度からもわかる。しかし、意図がまるでわからない。

 室内にいる辺境の三人と自分との間に、超えられない壁のようなものを感じて、怯む。そもそも、本来ならば今ごろは夫婦の寝室にいるはずなのに、応接間にいること自体がおかしい。

「では、どのようなおつもりで?」

 絞り出すようにしてマルケリアが問いかけると、レオニウスは安心させるように恭しげな口調で答えた。

「私は、この辺境でマルケリア様を……王太子殿下からお預かりした、大切なお客様として遇するつもりです。そのため、あなたとは決して二人きりにはならないと誓います」

「最初からそう言えばいいんですよ」

 侍女が腰に手を当てて言う。マルケリアは小さく首を傾げた。その言い方では、まるで——。

「つまり、これは白い結婚ということですか?」

 胸の内にヒヤリとしたものを感じながら、思いついたままに尋ねると、全員が笑顔で頷く。

「そう、そうです! だから、安心してお暮らしいただきたい」

 やはり、自分はここで『奥様』ではなく、単なる『お客様』にしかすぎないのか。婚約を解消したばかりの王太子ルキウスへの恋心を未だ残したままではあったけれど、それでも落胆する自分がいた。自分は王都だけではなく、辺境(ここ)でも必要とはされないのか。

「ただ、あなたのお父君を始めとした、聖女である義理の妹(ロザリア)様の評判を下げたくない、王都の議会連中やらといった者たちの目を誤魔化すために、しばらくはある程度『冷遇』を装わなければなりません。邪魔なあなたの価値を下げるために、年寄りの伯爵への後妻として嫁がせようとしていたくらいですからね。あなたがこの地で幸せに暮らしていると知ったら、どのような嫌がらせをしてくるかわからないので」

 レオニウスが続けて言う言葉は、ただ落胆するマルケリアの耳を滑って通り過ぎていった。平和な王都に比べて魔物の討伐任務のある北の辺境では、確かにすぐには役には立てないかもしれない。それでも、初めから何もさせてもらえないとは思わなかった。

「婚約を解消されたことは、王太子殿下もたいそう無念であったと聞いています。あなたも、これまで王太子妃教育にも熱心で、とても優秀であったと聞いておりますので、さぞかしお辛い思いをなさったでしょう。その傷を、この辺境でゆっくり慰めていただければと思います」

「優秀だなんて……そんなのはルキウス様——王太子殿下しか仰っていませんでしたわ。私は目立つこともない、地味なだけの婚約者と、そう言われて……」

 自嘲を込めてマルケリアが言うと、レオニウスはその青灰色の瞳を眇めた。

「そのようにご自分を責めては、お辛いだけです。きっと王都からここまでの旅でお疲れでしょう。今夜はもう、お部屋でゆっくり食事をされてから、お休みになるとよろしい」

レオニウスがそう言って執事に目配せをすると、執事は心得た様子で頷く。

「ラヴィア、マルケリア様を部屋へご案内しなさい」

「はい。姫様、これからお部屋にご案内しますね」

 執事が侍女に命じると、侍女はすぐにマルケリアの元へ歩み寄ってきた。

「『冷遇』を装うために屋敷の隅の部屋をご用意するしかありませんでしたが、どうかゆっくりとお過ごしください。おやすみなさい、良い夢を」

 レオニウスが再び恭しい、夫としては距離のありすぎる態度で、マルケリアに告げる。マルケリアは落ち込んだまま、侍女に促されて立ち上がり、後について部屋を出た。

「レオニウス様は口下手なところがあるので、色々と誤解されやすいですが、辺境伯としては有能で優しい方です。辺境では王都ほど便利な暮らしはお約束できませんが、できる限りの便宜をはかるように言われています。どうか姫様も、好きなだけ頼ってくださいね」

「あの、その姫様、というのは……」

 マルケリアが尋ねると、侍女はにっこりと笑った。

「マルケリア様は、いずれ王都に戻られて王太子妃になる方と聞いています。だから、姫様、です」

「えっ?」

 思いもかけないことを言われて、思わず立ち止まる。

「あれ? ひょっとして、姫様は聞いていないのですか? それが王太子殿下と、レオニウス様の計画ですよね?」

「聞いていないわ……それに、本当にそんなことあり得るのかしら?」

 苦しげな表情で頭を下げた、元婚約者の王太子ルキウスを思い出す。ルキウスと、辺境伯の間に交流があるのは知っていた。しかしてっきり、自分が年寄りの後妻になるのを防ぐためだけに、温情で結ばれた婚姻だと思っていたのだ。

「そうだ。これを。本当はお部屋についてからお渡しするつもりでしたが」

 侍女がポケットから畳まれた小さなメモを取り出して、マルケリアに渡してきた。辺境のゆらゆらと安定しない灯りの下で、紙片を開く。思わず、息を呑んだ。

『一年後、必ず迎えに行く。信じて待っていて欲しい。ルキウス』

 乱れてはいても見間違えるはずのない、それはルキウスの書いた走り書きだった。

「夕方、商隊に預けられて辺境に届いたばかりのものです。人目を避けてやり取りをしようとすると、どうしても小さなメモがせいぜいで」

「これを、ルキウス様が……? 本当に?」

 信じたい気持ちと、叶うはずのないという確信が、交互に訪れる。そんな簡単に行くものなら、自分は今、ここにはいないはず。そうだ、あの婚約解消は避けようのないことで、そうしたらマルケリアが邪魔な父が、放っておいてくれるはずもなくて——そうして、マルケリアはここにいる。

「私が絶望しないように、最後の気遣いをくださったのね」

 小さなメモを宝物のように胸に抱く。ルキウスはいつも、マルケリアの心を守ろうと心がけてくれていた。それを、思い出す。

「私は王都の難しい事情はわかりませんが、レオニウス様が姫様を守るためにこの白い結婚を引き受けたことは、間違いありません。私も、レオニウス様も、辺境も、姫様の味方です。それだけは、信じてください」

 侍女の言葉を、今度は素直に受け取れた。最初にレオニウスが彼女を初夜の席に連れてきた時には、愛人か何かではないかと疑ったが、それを恥ずかしく思う。事情を聞かされてみれば、レオニウスは言葉選びこそ下手ではあったが態度は常に誠実だった。

「さあ、お部屋に参りましょう。春とはいえ、辺境の夜は冷えますからね」

 再び、侍女が歩き始めるのを、マルケリアは追った。やがて、廊下の行き止まりに近い場所で侍女が立ち止まった。扉を開け、中へと促す。

「屋敷の隅の部屋で申し訳ないですが、できる限りのご用意はしました。足りないものがあれば、遠慮なく仰ってください」

 部屋は、決して広いとはいえないが、狭苦しくもなかった。赤々とした炎が燃える小さな暖炉。大きめのベッドと、一人用のソファに向かい合う小さなテーブルセット。壁際には机と椅子が置かれ、最低限の調度は一通り揃っている。隣室へ続く扉が一つあり、窓際には寝椅子も備えられていた。

「隣の部屋は、衣服をしまわせていただいています。急なことで、既製品がほとんどなのですが……。今、夜着をお出しいたしますね。それからお夕食もお持ちします。すっかり遅くなってしまって」

 バタバタと、侍女が慌ただしく動き回る。この部屋も、灯りは王都の均一な魔法の灯火に比べるとどれも明るさが不揃いで、ゆらゆらと落ち着かなく揺れていた。

「これは、わざと本物の蝋燭の火のようにしているのかしら?」

 ちょっとした好奇心が湧く。灯火の呪文を始めとした生活魔法はマルケリアも割と得意なのだが、こんな灯りは見た覚えがない。

「さあ、お食事をお持ちしましたよ。王都のような上品で豪華なものではありませんが」

 キョロキョロとしているうちに支度は終わったようで、声をかけられる。テーブルの上に、トレイが置かれていた。バターの添えられた黒パン二枚と、具沢山のスープ。ローストされた鶏肉と、干し葡萄(レーズン)がたっぷり詰まった小さな焼き菓子。カップには、湯気の立つお茶のようなものが入っている。

「気持ちの落ち着くハーブティーですよ」

 そう言われて口に含むと、身体を通る温かさに小さく震えた。思っていたよりも身体が冷えていたようだった。少しずつ食事を口にする。昼は紅茶と共に、薄いハムの挟まったサンドウィッチを口にしただけだった。

 温かい食事を、久しぶりに食べたような気持ちがする。具沢山のスープは温かく玉ねぎの甘さがほんのりあり、鶏肉は塩と胡椒だけのシンプルな味付けだった。食べなれない黒パンは薄くてもどっしりと重たく、噛み応えがある。

 ここに来るまでの宿でも食事はしていたのに、何を口にしていたか思い出せない。馬車の中で一人ずっと、これから自分がどうなるのかを、震えながら考えていた。

「お口に合えばよろしいのですが」

 心配げに見つめる侍女に、マルケリアはようやく顔を向けて微笑んだ。

「美味しいわ。あの、あなたの名前を教えて欲しいのだけれど」

 焦茶色の髪にヘーゼルの瞳をした侍女は、人好きのする笑顔で名乗る。

「私は、ラヴィア・フェルナールと申します。レオニウス様から姫様付きを命じられております。身の回りのことはすべて私が引き受けますので、これからよろしくお願いします」

「ラヴィアさんと仰るのね。私、自分専任の侍女がいたことがないから嬉しいわ。どうか、よろしくね」

「呼び捨てで構いませんよ」

「わかったわ、ラヴィア」

 食事が終わると、手伝われて着替えをした。洗面器に持ってきた湯を張られて、顔を洗い、拭いて、化粧水を塗ってから夜着を身につける。

『灯火よ、小さく』

 ラヴィアが唱えると、部屋の灯りが小さくなり、ぼんやりと薄暗くなった。こんな大雑把な呪文でも制御できるのだな、と、マルケリアは感心する。彼女だけの癖なのか、それとも辺境はみんなこうなのか。興味が湧くが、今は移動の疲れが残っていて、訊くのは今度にしようと思う。

「それでは、姫様。ゆっくりとお休みください」

 ラヴィアが部屋を出ていくと、マルケリアはしんとした部屋に一人取り残された。

この作品を読んでくださってありがとうございます。

本作は全44話の予定で、完結まで執筆・予約投稿済みです。

初日に3話まで公開し、以降は毎日20時に1話ずつ更新されますので、ゆっくりお付き合いいただければ幸いです。

よろしければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。


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