冬15
神殿での未婚の証明が適ったことで、マルケリアが王都に帰還するための準備は全て整った。証明の書類は、年明けのパーティーが終わった後に一足先に王都へ帰還する、アルノー伯爵が王家に持ち帰るという。
変わらず、午後にはアルノー夫妻から王都についての情報を得る時間をとっているが、それもそろそろ終わろうとしていた。アルノー夫人が刺繍を得意としていたことを思い出して、今度はそれを習おうかと考えている。
街で買った辺境のおまじないの図案集が、頭に残っていた。王族に素人の手作りのマフラーはあげられなくても、刺繍を施したハンカチの数枚を贈ることなら、婚約者なら当然とされる。
この冬の間に丁寧に時間をかけて、守護と、健康の紋を刺そうと思った。辺境では、ささやかでも効果があると言われているからだ。自分のあげたものが、ルキウスの身を助けることになるのなら、これほど嬉しいことはない。
同時に、年明けのパーティーの準備も並行して行われている。マルケリアはそこで、政治的な理由で王家から身を預けられた、大国ローデリオン皇国皇室の血を引く公爵令嬢として、正式にお披露目されることになっていた。その際に着るドレスをオーダーすることになったので、すでにその打ち合わせが何度か行われている。
それに合わせた装飾品をどうするか、悩んでいた。辺境へ送られる時にわずかながらに持ち出した母親の形見は、普段使いできるような小ぶりのものが多い。
けれども、新たに買うとなるとそれなりの金額で、自分の持ってきたお金ならば構わないが、被服費をルキウスが持ってくれているとわかった今は少し考えてしまうのだった。
「冬のドレスは首元まで詰まっていますし、ローデリオン皇国の血を引く証であるブローチをおつけになるのは決まっているのですから、それに合わせた耳飾りと、髪飾りだけですよね?」
それくらいなら、気にせず買えばいいのにと、ラヴィアは言う。辺境の財政感覚で考えると大した金額ではないのかもしれないが、王家の財源は皆が思うほど豊かではない。
王家としての公的な行事や儀式にかかる金額は税から公費として出されるが、王族の暮らしにかかる私的な支出は、王家の財産から払われる。王太子の持つ財産も、今は少なくなった王領の一部で王太子が治めている土地の税と、辺境から献上される魔物素材を売った金の一部が当てがわれているだけだ。一般的な貴族家の財産に比べて、そう多いわけではない。
ルキウスは堅実に貯め込んだそれを、さらに投資などにも活用して増やしていたが、それでも何度もドレスを作ったり装飾品を買うのは気がひけてしまう。マルケリアが正式に婚約者となれば、公費から婚約者の品位を保つための予算が組まれることになるのだが、今はまだそうではない。
「王太子殿下のお金で、彼が見ることもない宝飾品を買うのはちょっとね……」
マルケリアがそう言うと、ラヴィアは少し考え込むような顔をした。
「とはいえ、レオニウス様に買っていただくのも問題がありますよね」
「それはそうよ」
未婚の女性に宝飾品を贈るということは、アプローチをしていると見られてもおかしくない。せっかく神殿でお互いに未婚の証明をしたというのに、それでは台無しだ。
「せっかくだから、最高に着飾った姫様が見たかったんですが、王都までお預けですか……」
残念そうに言う言葉に、改めてラヴィアとの関係にまだ先があるのだと思えて、とても嬉しくなる。思わず笑顔になった。ラヴィアもそれを見て、笑顔になる。
「今回は持ってきたこれを使いましょう。色は合っているのだし、少し控えめだけれど、ブローチが主役なのだから問題ないわ」
マルケリアが言うと、ラヴィアは頷いてそれを受け取り、隣の部屋へしまいに行った。
ドレスの色は、ローデリオン皇室の血を母親から受け継いだ証の、髪色の銀と瞳の紫を使うことに決まっていた。首元までを覆う上品な紫色のドレスに、銀の刺繍を入れたものを縫わせている。靴はダンスを踊る可能性があるので、ダンス用のものを新しく用意する予定だ。ブローチが白銀なので、耳飾りと髪飾りも、白銀のものである。どちらも小ぶりだが、ドレスに似てマルケリアの瞳の色であるアメジストがはまっていた。
ドレスももう仮縫いまでも終わり、あとは仕上がりを待つばかりである。最近は、ラヴィアの肌や髪のお手入れに、一層力が入っていた。特にラヴィアお気に入りの銀髪はかつてないほどに艶やかで、指通りも良くキラキラと輝いている。
「初めて見る図案ですが……どこか不思議な模様ですね」
図案集を見せると、アルノー夫人は少し戸惑ったようにそれを眺めた。草や花や風など、自然をモチーフにしたようなものが多いのだが、それを縁取る一部に古代文字を崩したらしき意匠が見える。刺繍をあまりしてこなかったマルケリアから見ると、ワンポイントで入れる分にはさほどおかしくはない模様だと思うのだが、見慣れないものに戸惑っているようだった。
「これと……この紋を使いたいのです」
守護と、健康を意味する紋のページを示す。
「あとは、王太子殿下のイニシャルと王家の紋を入れますわ」
マルケリアがそう言うと、アルノー夫人は少し考えてから頷いた。
「私も初めて見た紋ですから、一緒に練習いたしましょう。変わった紋ですが、この文字のような部分以外は、図案としてはそれほど難しいものではなさそうなので、少し練習すればきっと上手く刺せるようになると思いますわ」
まずはお手本、とアルノー夫人が針に糸を通して、守護の紋の輪郭を刺し始める。盾のようなものに絡まる棘の大きな蔓薔薇と、いくつかの古代文字らしい単語の連なり。最初にした下書きは、枠に対してかなり大きいものだった。細部までを、まずは図案と同じ大きさで刺してみようということらしい。
「小さくすると、またイメージが違って見えるかもしれませんね。特に、この文字のような装飾は、小さくすればかなり潰れて見えるでしょう」
言いながら、手は迷うことなく図案通りに進めていく。マルケリアは感心してそれを見つめた。下書きの上をただなぞっているように見えるが、それ自体が実際のところ大した技術なのだろう。王太子妃教育の一環として、ハンカチへの刺繍数枚だけの経験しかないマルケリアに、同じことができるだろうか。
少しして、ざっくりと盾と蔓薔薇の輪郭を刺し終えると、アルノー夫人はそれをマルケリアに差し出した。
「どうぞ」
手に取って眺める。糸は均一の間隔で刺されていて、輪郭も滑らかだ。横に置かれた図案集と全く同じ模様が、布に刺されている。
「マルケリア様も、それを見本にやってみてくださいな。実際にハンカチに刺すのなら、このあたりに置いて、少し小さくしたほうがいいですね」
そう言われて、少し小さめに盾と蔓薔薇の模様を描き写す。描き上がると枠に布を嵌めてから、糸を通した針を手に持った。
しばらく迷ってから、思い切って最初の針を入れる。細かく、丁寧に。それを自分に言い聞かせながら、図案と見本を交互に見て確認しては針を進める。
頑張っても、少しずつ刺す間隔がまちまちになってしまう。一度手を止めて、深呼吸をした。手のひらに汗が溜まっている。近くに置いた布で拭ってから、また針を手に取った。
「少し、目が近くなっていますわ。それと、肩の力を抜きましょう。力を込めすぎると、布が引っ張られてしまいます」
アルノー夫人に肩を優しく叩かれて、マルケリアは慌てて肩の力を抜く。知らないうちに、怒り肩になっていた。
「春になれば王都に帰るのですもの。それまで、ゆっくりで構いませんのよ」
言われて、少し気が緩む。できれば、年明けにアルノー伯爵に持ち帰って欲しくて、気が急いていたのは確かだった。改めて、ゆっくり丁寧に刺し始める。線をなぞるように、少しずつ。これを手にしたルキウスが何と言うかを考えながら。
まずは輪郭を刺して、それから周囲の装飾に手をつける。古代文字のような、不思議な意匠。なぞるように少しずつ。気がつくと、祈りのような気持ちで、針を動かしていた。わずかに魔力が体内を巡っていることに気がつく。刺す針の先が、うっすらと光っていた。
「まあ」
アルノー夫人が驚いたように声を上げる。不思議と、マルケリアの手は止まることなく、スルスルと動く。呪文をなぞるように、指が自然と動いた。最後の一文字を刺し終えると、光は収まり、自然と手も止まった。
「これが……守護の紋……」
文字のような模様の上を、指先でなぞる。ほのかな魔力の残滓が感じられた。
「刺繍に魔力を込めるなんて……初めて見ましたわ」
「刺していたら自然と魔力が漏れ出したのです」
「辺境のまじないの紋は、そういうものですよ?」
部屋の隅で見ていたラヴィアが言う。
「模様が光ったのなら、成功ですね。初めてなのにすごいです。さすがは姫様!」
嬉しそうに続けられて、さっきの現象が辺境では当たり前のことだったのだと知る。使われる呪文の違いといい、王都では信じられないようなことが、辺境ではたびたび起こるのだなと思う。
「これ……王太子殿下に差し上げても問題ないのでしょうか……」
マルケリアが尋ねると、アルノー夫人は悩ましげに首を傾げて、ううん、と唸った。
「主人に確認します」
「そうしていただけると嬉しいですわ」
そうして、今日の刺繍の時間は終わった。




