冬13
アルノー夫妻から王都の情報を教えてもらったり、新しいドレスを作ったりと、王都へ帰るための準備を始めて数日経った頃に、マルケリアは一つ、とても重大な話を忘れていたことに気がついた。
王都に帰り、王太子妃としてルキウスと結ばれるためには、まずレオニウスとの婚姻関係を終わらせなければならないということだ。ずっと、レオニウスとは二人きりになることもなく、奥方として扱われたことがなかったので、自分が形だけとはいえ人妻であることを、気をつけていないとすぐうっかり忘れてしまう。
保護のための白い結婚だと、あの春の晩とは違って、今ではきちんと理解している。本当に、ルキウスとレオニウスの二人は、マルケリアが王都に返り咲けるように動き続け、今、それをやり遂げようとしているのだ。
ロザリアの出奔というイレギュラーがあってこそのものではあるが、最終的にあの議会すら黙らせたのだから恐れ入る。西の大国ローデリオンの力まで借りて、父親の首に鈴をつけたのも大きい。
それにしても、王太子であるルキウスと結ばれるのが、形だけのものだったとはいえ、婚歴のついたマルケリアで本当に良いのだろうか。議会でも承認は受けたと聞いたが、果たして民が納得するのか。気にはなるが、ルキウスならどうとでもしそうな気もしてくる。マルケリアは、ただ、辺境でできることをやるしかない。
「レオニウス様と、今している婚姻の件でお話をしたいのだけれど」
エヴァルドに言うと、その日の午後にまた、サンルームで時間をとってもらえることになった。
ラヴィアを伴いサンルームに入ると、今日はすでに先にレオニウスが着座していた。テーブルの上には、何枚か書類が置かれている。ラヴィアが渋々といった様子でお茶の用意をしに行こうとすると、すでに他の侍女に頼んであると言われた。前回、うっかり二人きりになったことを、心の底から反省してのことらしい。
「やればできるじゃないですか」
ラヴィアが、少し上から目線で言う。それを、レオニウスはため息ひとつで許した。
少しして、見覚えのない侍女がカートでお茶を運んできた。カートがテーブルのそばにつけられると、ラヴィアもカップやミルクと蜂蜜の入ったピッチャーなどを供する。
レオニウスの前には大きな胡桃の実がいくつも盛られた器、マルケリアの前には刻んだナッツの入ったクッキーが乗った皿が置かれた。侍女の手で、二人の前に置かれたカップに、紅茶が注がれる。侍女は紅茶を注ぎ終わると、一礼を残して退室していった。
「こちら、見覚えがございますでしょう」
レオニウスが、手元に置いていた書類を二枚重ねて、マルケリアに向ける。それは、辺境に着いた直後に署名した、婚姻のための書類だった。当然、レオニウスだけでなく、マルケリアのサインも入っている。不安に押しつぶされそうだった気持ちが出てしまったのか、少し震えて滲み、掠れもあるのが恥ずかしい。
「婚姻の届出ですよね。でも、それが——え? 待って、二枚?」
マルケリアは信じられないものを見たように、目を見開いた。この国の貴族は、婚姻の届出のための書類を、三通書くのが普通だ。一枚は王家に提出し、もう一枚は神殿に提出し、残った一枚は婚家の爵位持ちか、爵位の継承者——つまり、女性が爵位を継ぐ場合を除いて、通常は夫が保管することになっている。すでに婚姻済みなのに、なぜレオニウスの手元に二枚あるのか。
「議会派にマルケリア様が嫁いだと思わせなければならなかったため、一枚は王家に提出しましたが、神殿に出す分は私の一存で保留しておりました。つまり、正式にはあなたが婚姻してマルケリア・アルダリオンだった事実はなく、あなたは今でもマルケリア・グラシエルのままだということです」
「白い結婚ですら、なかったと……そういうことですか?」
あまりのことに、声が震える。自分を守るために、そんな綱渡りをしていたなんて。それなら、前提が全て覆る。
「王太子殿下から、可能な限りあなたの身も心も守るように命じられたのですから、できる限りのことはいたします」
なんでもないことのように、レオニウスが言う。それから、青灰の瞳を軽く伏せて続けた。
「これまで黙っていて申し訳ありませんでした。私の一存で、これはあなたが王都へ帰ると決心するまでは、話すべきではないと考えました。騙されたと、そうお思いかもしれませんが、あなたの名誉を守るために、必要なことでした。お叱りも憤りも、何もかも甘んじて受け止めさせていただきます」
書類を手元に引き戻して、レオニウスが首を垂れる。マルケリアは呆然とした気持ちで数秒それを見つめた。それから、自分が未婚のままだったという事実がじわじわと追いついてくる。都合が良すぎて信じられない気持ちだが、目の前の書類が、それを事実だと言う。
マルケリアが王家に嫁ぐために必要としていたこと、その全てが出揃っていた。この婚姻は、そもそも成立していなかったのだ。理解が及ぶと、ずっとあった胸のつかえが、一気に取れたような気持ちになった。
保護するための、形だけの妻。実の伴っていない結婚ではあったが、それでも、全く気にしていないわけではなかった。何気なく、それを気に病んでいたのだと気がつく。
「そんな……私が怒るようなことは何も……だって、全部私を守るためのことです。父と議会派から身を守るのに、形だけでもレオニウス様の妻という隠れ蓑が必要だった。それを、あなたは引き受けてくださった。結果的に、私の婚歴すらもなかったことになる。全て、あなたの慧眼でなされたことです。感謝こそすれ、怒りなど微塵も湧きません」
「それなら、よろしいのですが。——それと、王都に提出された書類を無効化するために、一度神殿に、アルノー夫妻同行の上で未婚の証明をしに行かねばなりません。近いうちに、ご同行をお願いいたします」
「はい……はい!」
目元に理由のわからない涙が浮かぶのを誤魔化すように瞬きをして、マルケリアは頷いた。
いよいよ、本当にルキウスの元に婚約者として戻れるのだという実感が湧いてくる。本当にこんな自分でいいのかといった、後ろめたさのようなものが払拭されていた。




