冬8
「王都から、商隊が帰還したらしいんですが……」
マルケリアがいつものように図書室で本を読んでから、午後のサンルームで待っていると、お茶の準備をしに行ったラヴィアが帰ってくるなり、曖昧な様子でそう口にした。
「何かあったの? まさか、事故とか」
マルケリアが言うと、それには首を振る。
「何だか、昼過ぎから屋敷の中が妙にバタバタしているようで……。どうも商隊に誰かが同行してきたとかで、レオニウス様が今、応接室で対応していると漏れ聞きました」
「王都から?」
「ええ。まだ、詳しいことはわからないんですが」
そう言いながらも、手だけはテキパキといつものようにお茶を淹れる。お茶請けの胡桃入りのクッキーの皿を置き、蜂蜜とミルクの入ったピッチャーも置くと、テーブルの横に控えた。
マルケリアは少し心がざわつくのを感じながら、淹れたての紅茶に少しの蜂蜜を垂らし、ミルクを注ぐ。スプーンを前後に動かすと、紅茶にミルクの渦ができて混ざっていく。いつもなら見ていて落ち着くのに、今は妙にそれが目についた。
「では、このあとどうしましょう? カシアンさんの手は空いているかしら」
「来客はエヴァルドさんの領分ですから、カシアンさんはいつも通りだと思いますけど」
いつもの通り、カシアンに領地経営の書類を見せてもらってもいいのか判断がつかない。落ち着かない気持ちのまま、お茶の時間を終える。再び図書室に向かうと、途中で早足で歩くエヴァルドに出くわした。
「マルケリア様」
エヴァルドは名前を呼んで立ち止まると、少し逡巡しながら話しかけてきた。
「実は、商隊と一緒に、王宮から使者として、宰相補佐のアルノー伯爵と、その奥様がおいでになりまして」
「えっ?」
ここで聞くとは思わなかった、よく知っている名前が突然出てきて、思わず固まる。宰相補佐のアルノー伯爵には王都にいる時、王太子ルキウスと王太子妃となる予定だったマルケリアは、よく政策の件で相談をしたり、指導を受けたりしていたのだ。
奥方であるアルノー夫人は若い頃から王妃付きの女官として仕えていて、王妃とお茶をする時には側で控えていることも多かった。王妃にとって、良い相談役でもあると聞いた覚えがある。
「今は、旦那様が応対していますが、場合によっては今夜のお夕食を共にとっていただくことになるかもしれません」
「ドレスに着替えていただいたほうがいいということですか?」
ラヴィアが口を挟む。
「今の時点では正式な晩餐ではないと旦那様は言っておられましたが、マルケリア様が気になるようでしたら、そのほうがいいかもしれません」
マルケリアは急な出来事に気持ちがついていかないまま、それを聞いていた。一礼を残してエヴァルドが去っていくのを、ただ眺める。
「どうなさいますか? レオニウス様がホストの私的な夕食に参加するだけなら、そのままの格好でも大丈夫とは思いますが」
ラヴィアに訊かれて、途端に今着ている動きやすいワンピースとジャケットが、心許ないもののように感じてしまう。身を守るものがないような、不安な気持ち。王都では、ずっと固いコルセットをして、ドレス姿で過ごしていたことを思い出す。
「……ドレスを、着るわ」
少ししてから、ようやくそう口にする。ラヴィアが急かさないでいてくれたから、飲み込んでから決めることができた。
アルノー伯爵と、気楽な服で会うことなどできない。ここは辺境だけれど、王宮の人間に会うのならそれに相応しい装いをしなければと思う。
そうして、レオニウスとこの屋敷で共に食事をするのは初めてだと気がついた。狩猟会の時にその健啖家ぶりを見て、それ以外にも目の前で氷を作りながら何かを摘む姿は見てきたけれど、食堂で食事を共にした覚えがない。食堂で食べることすら初めてだ。これだけ長い間辺境で——この屋敷で暮らしてきたのに、知らない部屋や場所だらけだと、今さら気がつく。
疎外されていたのではない。冷遇されていたわけでもない。守られていたのだ。そう思った。
「マルケリア様、お久しぶりでございます」
「ご無沙汰しております。お元気そうで安心いたしました」
食堂に入ると、レオニウスの斜め前に並んで座っていた二人が席を立ち、マルケリアに軽く一礼する。マルケリアはドレスの裾を少し上げて、それに応えた。
「アルノー伯爵、夫人。長らくご無沙汰しておりました。辺境で再びお会いできましたこと、幸いに存じます」
アルノー夫妻の向かいの席で、エヴァルドが椅子を引いて待機している。マルケリアは初めてこの食堂に来たと思われないように、慣れた様子を心掛けて席についた。
アルノー伯爵はカシアンと同じ茶色の髪に茶色の瞳をした中年の男性で、栗色の髪に青い瞳をした夫人はそれより少し若く見える。二人とも、王と王妃とほぼ同年代だ。
「辺境では夕食は簡単に済ませることになっているので、王都からいらしたお二人には物足りないものかもしれません」
「どうかお気になさらず。先触れもなく、急に訪ねた私共が悪いのです」
レオニウスが言うと、アルノー伯爵が応える。そう言いながらも、酒をそれほど好まないというレオニウスの前には、常にはないだろう食前酒が用意されていた。給仕の手によってアルノー夫妻にも供される。マルケリアがそれを断ると、代わりに果実水が用意された。
「それでは、今宵はマルケリア様とあなた方の再会に乾杯いたしましょう」
「再会に」
「再会に」
レオニウスの乾杯の声に、二人が唱和する。マルケリアも小さく呟いて、それからグラスの果実水を口にした。久しぶりにきつく締めたコルセットが、取るべき姿勢を思い出させる。
各々が聖句を唱えたあと、ラヴィアがまとめて運んでくるのではなく、前菜から出される料理を久しぶりに口にする。レオニウスは謙遜していたが、王都の二人に気を遣って本来の辺境の夕食よりも多く、メインに肉と魚の二品を出している。特に、冬になってからは塩漬け肉や燻製、乾燥した魚が多かったのに、今夜は両方とも新鮮なものが用意されているのを見て、辺境がアルノー夫妻を歓待しているのが理解できた。氷魔法で保存されていたものを使ったのか、今夜のために屠ったのか。
カトラリーの動きが優雅に見えるよう、注意を払いながら食事をした。レオニウスも、マナー通りの食事をしている。いつもと同じ味付けのはずなのに、どれもあまり味がしなかった。
交わされる会話は、最近の天気や出される食品についてといった当たり障りのないものばかりで、食卓には相応しいが、いつものレオニウスとの会話とはあまりにも遠すぎる。辺境の揺れる灯りを、王都の二人がどう思っているのか気になってしまう。王都での卑屈だった自分を思い出して、少し憂鬱になった。
食後のデザートが王都風に整えられているのを、どこか残念な気持ちで見る。食後のお茶も、いつもなら寝る前には紅茶は良くないからと、ハーブティーだった。
ラヴィア以外が淹れる紅茶を飲むのも久しぶりだ。蜂蜜ではなく、砂糖をほんの少し入れて、スプーンを前後に動かす。微かにも音を立てないやり方は、王宮の教育で身についたものだった。
「アルノー夫妻は、冬をこちらで過ごされる予定です。伯爵は年が明けたら一度王都に先に帰り、夫人は……あなたが王都に戻られるまで、お目付けとして残られると」
レオニウスの言葉を聞き、黙って頷いた。心の中ではまだ整理がついていないのに、帰る準備だけが整っていく。帰りたい気持ちがなくなったわけではない。ルキウスに会いたい気持ちは変わらない。けれども、マルケリアにはまだその覚悟ができていなかった。本当に帰っていいのかも、わからない。
そして何より、辺境に置いていくもののことを考えてしまうと、途端に及び腰になってしまう自分がいた。レオニウスとの知的な会話。カシアンとの勉強の時間。ラヴィアに支えられる生活。
ラヴィアが教えてくれたこと。自分で選んでもいいということ。望みを話すのは、我が儘ではないということ。好きなものは自分で決めるということ。
辺境で変わってしまった自分を、王都は——ルキウスは受け入れてくれるだろうか。




