冬3
朝、目が覚めると、冬のカーテン越しの仄かな光で、すっかり見慣れた天井が目に入る。そして、手触りの良い、暖かな色合いのベッドカバーも。
ラヴィアがこまめに中身を入れ替えてくれる本棚。いつも食事をとるテーブルとソファ。窓辺の寝椅子。どれも、この一年近い生活で見慣れたものだ。
身を起こすと、冬の冷たい空気に晒されて身震いする。いつもより早い時間に目が覚めてしまったようで、暖炉にまだ火が入っていない。ベッドの上にかけておいた厚手のガウンを羽織り、体の前でかき合わせると、マルケリアはスリッパを履いて窓辺へ向かった。
カーテンの隙間から見える中庭は、すっかり冬の様相で、一部の常緑樹を除いて木の葉はすっかり落ち、剥き出しの木目を見せている。球根で咲くヒヤシンスが、雪を先取りして地面を白く染めていた。
窓辺の冷たい空気に触れて、吐く息が白い。マルケリアが息を吹きかけると、窓ガラスが白く曇った。
昨日聞いた話が、まだ消化不良のまま胸につかえている。マルケリアはこの一年近くの王都の情報を、あまりにも知らなさすぎた。昨晩は、それを思い知らされた。
マルケリアの知らない、見えない場所で、色々な事情が絡み合って、政治は動いていた。それらが動いた結果が、ロザリアの出奔で、聖女認定なのだろう。それはわかった。
けれども、その先。マルケリアがどうしたいのかを考え始めると駄目だった。どうしても、冷静ではいられない。ルキウスに会いたい気持ちは本当だった。会って、もう一度話がしたい。同じ方向を向いて、政治のことを二人で決めて、同じ道を歩みたい。その気持ちは本物だ。
けれども、なぜか素直にそれを喜べない自分もいて、もどかしい。このまま辺境で暮らしている自分を夢想する。ラヴィアに甘やかされて、エヴァルドに編み物を習い、カシアンから領地経営の話を聞く。レオニウスは向かいの席で何かを齧りながら、延々と氷を作って、時おり森に遠征に出る。それを屋敷で待つ自分。
そんな想像をする。きっと楽しいだろう。皆、親切で優しくしてくれる。
そこで、ふとケイランの、ヒヤリとした眼差しを思い出す。揉め事を辺境に持ち込む人間として、警戒されているのを思い出した。
全員が優しいわけではないこと。魔物の出る、危険な土地だということ。
辺境に来てから、マルケリアに見せられる世界が優しくて、ついそれらを忘れてしまいそうになる。レオニウスだって、いつまでもマルケリアがここにいたら、困るだろう。
レオニウスはあくまでも王太子殿下からお預かりした、大切なお客様だと、そういう姿勢を崩さない。書類の上だけでも妻なはずなのに、常に距離と節度を持って接してくる。
自分自身が何かを成し遂げたのではないのに、事情が変わって急に帰れるようになったことが、引っかかっているのかもしれない。これがマルケリアによる何かの功績があってのことだったのなら、こんなに悩まずに帰りたいと思えたのかもしれなかった。
「姫様、もう起きていたんですか? 窓際は寒いでしょう? 今すぐ、暖炉の火を入れますね」
背後からラヴィアの元気な声がかかって、振り返る。顔を洗うための湯の入った桶を抱え、ウールのワンピースの上にエプロンをつけて、さらに毛糸で編んだ上着を羽織っていた。焦茶色の髪は、冬になってからは、首のすぐ後ろの低い位置で結ばれている。
テーブルに近い位置に桶を置くと、すぐに暖炉に薪を放り込んで『炎』と唱える。すると一瞬パッと火が吹いて、すぐに薪の下に入れた木屑に火がつき、そこから薪に燃え広がっていく。パチパチと威勢の良い音がして、炎が大きくなっていくのを見守ってから、ラヴィアがマルケリアのほうに歩いてきた。
手を握られる。温かかった。
「ほら、こんなに冷えてしまって……。お風邪でも召したらどうするんです?」
少し怒った様子で言って、湯を洗面器に入れる。
「さあ、お顔を洗って、それから朝食をお持ちしますね。今朝は、昨夜からじっくり煮込んだ、牛肉のシチューがメインですよ。冬の牛は脂が乗って美味しいですからね」
マルケリアの内面を知ってか知らずか、いつもと変わらないマイペースな態度がありがたい。促されるままに洗顔し、化粧水を塗られ、髪を梳かされてまとめられる。食事の間は、長い髪が口元に落ちてこないように、後ろで括っておくのだ。
それから、出された服に着替える。シュミーズの上に、くるぶしまで覆うウールの厚手のワンピース。今日は、濃い緑色のものに、ところどころ髪色の銀の刺繍が入っている。食事が終わったら、その上から厚手の毛織りのジャケットを羽織る。
マルケリアが着替え終わると、ラヴィアは厨房へ食事を取りに下がった。また一人きりになるが、今度は部屋は暖かい。現金なもので、こんな悩みを持っていても、お腹は空く。熱々の牛肉のシチューのことを考えると、口の中に唾が湧いた。
辺境に来てから、自分は少し図太くなったのかもしれない。そんなことを思う。
「お待たせしました。熱いうちに食べてくださいね」
カートを転がして、ラヴィアが部屋に戻ってくる。テーブルの上には、チコリと胡桃を和えたサラダ、大きなシチュー用の皿いっぱいに盛られた、肉と芋とにんじん、リーキがたっぷりのシチューと、バターを添えられた大きな白パン、手のひらほどのサイズの川魚のようなものを揚げてソースをかけたものが並ぶ。相変わらず朝から量が多い。
サラダは胡桃の香ばしさに、チコリのシャキシャキとした歯応え、爽やかな苦味が癖になる。シチューの肉は大きくて、そのままでは口に入らない。スプーンで簡単に割けるほどに柔らかく煮てあるそれを口に入れると、脂の甘みと肉の旨みがギュッと詰まっている。じゃがいもやにんじん、リーキも程よく煮崩れていて、とろりとした味わいになっていた。
シチューの濃い味付けに、合間にバターを塗ったパンを食べると塩気がちょうどいい。川魚を揚げたものは、衣も身もサクサクとした食感で、頭から骨まで丸ごと食べられてしまう。酢を使っているらしい、酸味のあるソースがよく合っていた。
悩んでいても美味しく食べられる自分に呆れながらも、そんな自分が嫌いではないと思う。辺境式の朝食で鍛えられた胃袋は、美味しいものに目がない。食べることは生きることで、同時に娯楽でもある。
「どうですか? シチュー、美味しいでしょう?」
「ええ、とても美味しかったわ。もうお腹がいっぱい」
ラヴィアの自慢げな声に、笑顔で答える。ラヴィアは満足したように頷いて、空いた食器を下げに行った。
食べることをシンプルに楽しめるようになったのは、辺境に来てからだ。王都での食事は栄養を補充するためのものと、格式を守るための儀式だった。辺境の食事は、素直に美味しいものを食べる喜びを伝える。レオニウスが同席していたら、彼の目が気になって、こんなふうに素直には楽しめなかったかもしれない。ラヴィアがいなかったら、もっと孤独で寂しいものになっていただろう。
王都に帰るということは、この生活を手放すことでもある。また、あの嵐のような日々に身を晒す勇気を、取り戻せるのか。再び、王宮での冷たい儀式と、人々の厳しい眼差しの前に立つ勇気を持つことができるのか。
こんな優しい生活を知る前だったら、当然のこととして受け入れていた王都での生活に、今さら戻れるのかという不安。帰っても、また同じことの繰り返しになるのではないかという恐怖。そんな孤独な世界に、ルキウスただ一人を置いてきてしまった自分への失望。
辺境へ送られた時、諦めなかったのは自分ではなく、ルキウスとレオニウスの二人だけだった。そして、そのまま諦めることなくやり遂げたのも、ルキウスとレオニウスで。
自分はその尻馬に乗るだけで、本当に良いのかという思いがある。せめて、自分にも何か王都へ持ち帰る『何か』が欲しい。自分を奮い立たせることができる、何かが。




