秋5
「『水よ、湧き出でて』……あっ」
「『水よ、湧き出でて満ち……』えーと……」
バシャン、バシャンと、水の弾ける音がする。とりあえず、屋敷の中で水魔法の適性が高い者と、魔力の多い者が数名集められ、そこでマルケリアの魔法を伝えるところまでやった。今は、練習中だ。
辺境の魔法は、短い単語を発する一瞬で魔力を叩き込むものなので、王都式の魔法のように、長い制御系の呪文を唱えながら魔力を細く練る、ということに、皆なかなか馴染めない様子だった。
『水よ、湧き出でて満ち、深く湛えよ』
大きな水の塊が、宙に浮かんでから池に落ちた。さすがにレオニウスは、森でも王都式の氷攻撃呪文を扱うだけあって、一発で覚えて使い熟している。裏庭も、中庭も、あっという間に甕はいっぱいに溢れて、今は皆、中庭にある池のほとりで水生成魔法を試しているところだ。
『水よ、湧き出でて満ち、深く湛えよ』
マルケリアのすぐ横でも呪文を唱える声がして、大きな水の塊が宙に浮かび、そして池に落ちた。
「どうです? 姫様。私だって、ちゃんと唱えられましたよ」
ラヴィアが得意げにマルケリアを見る。マルケリアは笑顔で褒めた。ラヴィアも嬉しそうに笑う。
「でも、私はこの呪文は五回くらいしか唱えられそうにありません。適性がないと、結構ごっそり魔力を使いますね」
そう言って、肩をすくめて見せる。頭上で結った長い髪が、ゆらりと揺れた。
「無から生み出す系の魔法はどうしてもね……。私も、それほど魔力は多くないから、五回も出せばほとんど魔力が空になると思うわ」
「レオニウス様は、さっきから連発してますけどね。さすが、騎士団を率いる辺境伯です」
「そうね。氷魔法と水魔法の適性は別だから、単純に魔力が多いのね、きっと」
慣れない呪文に躓く相手に、いちいち実際に使って見本を見せて回っているから、先ほどから連発しているのだ。本当に、よく魔力が保つものだと思う。マルケリアは最初の見本を二回ほどやって見せて、それからはレオニウスに任せてしまっている。
集められた者たちは、十人ほど。料理人もいればメイドや庭師、侍従などまで多岐にわたる。彼らが無事に呪文を覚えて使いこなせるようになったら、さらに彼らが選りすぐられた騎士や領民たちに教えることになるという。なかなか先の長い話だ。
そうして領民たちが呪文を使えるようになったら、出した水を神殿に売る形になるという。実際に金を出すのは辺境で、神殿は一旦立て替える形で彼らに報酬を支払うことになる。水生成魔法が使える者が二十人もいれば、変わるがわる神殿に水を提供すれば充分に足りるはずという計算だが、レオニウスはもう少し多くの人々に魔法を伝播する予定だという。
神殿には、すでにレオニウスから話が行っているそうだ。元々、王家からの指導で、治癒魔法の前に清浄な水で傷口を洗う方法は、全国の神殿で試すことが推奨されていたから、神殿側にとっても良い話だったようだ。
「そろそろ水辺は冷えますね。お部屋に戻りましょう。温かいお茶を用意します。生姜入りの濃いミルクティーとかが良いですかね」
「え、良いのかしら。まだ皆さんやっているでしょう?」
「大丈夫。あとは、レオニウス様がどうにかしますよ。戻りましょう、姫様」
ラヴィアに袖を引かれるまま、屋敷のほうへと歩き出す。レオニウスが、チラリとこちらを見て、黙礼して見せた。
部屋に戻ると、さっそくラヴィアがお茶の支度のために部屋を出て行く。マルケリアはベッドの枕元に置いたままの、小さな紙片を手に取って開いてみた。覚えるほどの長さもない、らしくなく乱れた筆跡が目に入る。何度も手に取って眺めたために、紙片はよれて、折り目は毛羽立っていた。
文字を指先でそっと辿る。『信じて待っていて欲しい。ルキウス』名前の部分を、何度も指で辿った。擦り切れ始めた文字が、辺境に来てからの時間の経過を告げている。
夏もとうに終わり、季節はもう秋だ。秋が終わったら冬、そして冬が終わればまた春がやってくる。約束の、春が。
本当に王都に戻れるのだろうか。考えてはいけないと思いながらも、考えてしまう。ルキウスからの手紙では、不自然なほどにロザリアの話題には触れられていない。だから、彼女が今、王都でどのように過ごしているのか——どんなふうに、ルキウスと過ごしているのか、マルケリアにはさっぱりわからない。
王都を出る直前に見た、聖女としての名声を恣にしていた姿が、脳裏に蘇る。マルケリアなどは狩りの獲物の解体の血をチラッと見るだけでも、一瞬心臓がキュッとしてしまったのに、ロザリアはどんな怪我人も平気で治してしまうという。
物心がつく前から公爵家で育ちながら、なぜそんな凄惨な風景を受け止められるのか。そこだけは、マルケリアも敵わないと思うところだった。
「お待たせしました。すぐに淹れますからね」
ラヴィアが戻ってきたことに気がつき、紙片を枕元に戻す。マイペースなラヴィアの存在には、本当に助けられている。一人でいると、すぐに後ろ向きなことを考えてしまうのだ。
「料理人がちょうどクッキーを焼いていたので、何枚かもらってきました! 刻んだ胡桃をたっぷり使った、とっても香ばしいクッキーでしたよ」
先に味見をしたことを悪びれなく報告してくる、そんな距離感が、不思議と心地よかった。
「ありがとう」
そう言って、テーブルに置かれたカップを手に取る。手のひらにじんわりと熱が伝わる。陶磁器ではない木のカップにも、ずいぶん慣れた。木の温かみのある感触と、口に当たる厚みと柔らかさ。
一口飲むと、思いの外身体が冷えていて、一瞬ブルリと震えてしまった。温かい液体が、身体を通って行く感触を楽しむ。ほんのりとした蜂蜜の甘さに、生姜が程よく効いていて、身体がじんわりと温まる気がした。
窓の外からは、水の跳ねる音と、呪文を唱える声が、まだ小さく聞こえている。皆、とても真剣にやっていた。レオニウスから、これは辺境の役に立つことだと言われたからだろう。ここでは誰もが、辺境伯であるレオニウスに敬意を払う。長い時をかけて積み重ねられた信頼を、マルケリアはそこに見た。
命じるだけではなく、率先して実演してみせる姿。強くて揺るがない、その後ろ姿。きっと、危険な魔物を狩りに行く森でも、大勢の騎士の後ろに隠れてなどいないだろう。先陣を切って駆けていく。そんな姿が、簡単に想像できた。
王都にいる貴族は、貴族派や王族派はほぼ領地に引っ込んでしまったため、議会派がほとんどだ。商売を——儲けを優先するのが、悪いことだけではないのはわかっている。この国の経済状況は、他国に比べても良い方だ。それは、王都で商人たちが活発に活動しているからだ。
けれども、議会派は目先の目標や儲けにばかり気を取られて、何十年、何百年といった先、遠い未来を見通す視点に欠けている。国王陛下とルキウスはそう言って、議会派を牽引できないでいる王家の権勢の弱さを嘆いていた。
レオニウスの政策は、とにかく実行までが早い。思いついたことはとりあえず試してみる、ということができるのは、経済的に辺境が恵まれていることもあるけれど、レオニウスの資質によるものが大きいとマルケリアは思う。辺境のためになることなら、何でもやる。感情ではなく、理性で動く。レオニウスはそう割り切っているようだった。
レオニウスが率いる北の辺境は、恐ろしい魔物がいるけれど、結束していて、皆が勤勉で、マルケリアには眩しく見えた。




