第4章:破壊の論理、救済の数式
轟音と共に、九条屋の象徴でもあった古い木造の門が、重機の爪によって無残に引き剥がされた。
乾いた木の割れる音が、静かな温泉街に響き渡る。近隣の住民たちは、窓から怯えたような、あるいは諦めたような視線を送るだけで、誰も助けには来ない。それが、租借地という「外圧」に屈し続けたこの街の日常だった。
「ひゃーっはっは! 悪いですねぇ、九条さん。本部の意向が変わりましてね。三ヶ月も待っていられないんですよ。今日中に更地にして、レヴィアタン社に引き渡す。これが『決定事項』です!」
重機の前で、鰐淵が下卑た笑い声を上げている。彼の背後には、黒いスーツを着たガタイのいい男たちが数人、威圧するように立っていた。
「待ってください! そんなの、契約違反です!」
紬が必死に叫ぶが、作業員たちは冷淡に次の重機を動かそうとする。その時、俺は玲華の隣を通り過ぎ、悠然と鰐淵の前へと歩み出た。
「経営眼」
脳を焼く熱量。だが、今はそれを心地よくすら感じる。視界に映る重機、作業員、そして鰐淵の懐にある書類。それらすべてが、膨大な「コスト」と「負債」の塊として計算されていく。
「湊くん、危ないよ!」
「下がっていろ、紬。……鰐淵さん。あなたは今、人生最大の『計算ミス』を犯している」
俺の声は、騒音の中でも不思議なほど明晰に響いた。
鰐淵が眉をひそめる。
「計算ミス? 笑わせるな。この土地を更地にすれば、俺には莫大な仲介料が入る。お前らみたいな貧乏人に、何ができるってんだ!」
「確かに、この土地を更地にすれば利益が出るかもしれない。だが――」
俺は指をパチンと鳴らし、重機の型番を指差した。
「その重機、レヴィアタン社の所有物ではなく、地元の建設会社からのリース品ですね。そして、その作業員たちも、派遣会社を通した日雇いだ。……鰐淵さん、あなたは彼らに『この建物にはアスベストが含まれている可能性があり、解体には特殊な認可が必要だ』という事実を伝えていますか?」
鰐淵の顔が、一瞬で土気色に変わった。俺は経営眼で読み取った「真実」を、論理という名の弾丸に変えて放つ。
「この九条屋の基礎部分には、半世紀前の建材が残っている。今の法律……いや、レヴィアタン社が準拠している国際基準(ISO)によれば、適切な防護措置なしでの解体は『重大な環境汚染』と見なされる。もし今、ここで解体を続行すれば、その損害賠償額は概算で十二億。それは銀行でもレヴィアタンでもなく、現場責任者である『あなた個人』に請求される契約になっている」
「な、何を馬鹿な……。そんなはずは……」
「白金玲華さん。アナリストであるあなたなら、わかりますよね?」
俺は後ろで静観していた玲華を振り返った。
彼女は驚いたように目を見開いていたが、すぐに手元のタブレットを高速で操作し始めた。
「……九条湊。あなた、どこからその内部情報を? ……確かにそうですわ。レヴィアタン社の解体ガイドライン第十七条。環境リスクに関する個人賠償責任条項。……鰐淵さん、あなたが今日ここで強行突破した場合、私は即座に本社へ報告を入れます。会社はあなたをトカゲの尻尾切りにするでしょうね」
玲華の冷徹な追撃に、鰐淵は膝をガクガクと震わせた。
作業員たちも、その言葉を聞いて重機のエンジンを止める。彼らにとって、割に合わないリスクを背負う理由はない。
「く、くそっ……! 覚えてろよ!」
鰐淵は捨て台詞を吐き、這う這うの体で車に逃げ込んだ。重機が去り、再び静寂が戻った九条屋の門前。壊された門が、戦いの激しさを物語っていた。
「……助かった。湊くん、本当にすごいや!」
紬が駆け寄ってくる。彼女の温もりが、限界を超えて「経営眼」を使い続けた俺の脳を、優しく包み込んでいく。視界の赤みが消え、平穏な緑色の世界が戻ってきた。
「……紬。ごめん、門は守れなかった」
「いいよ、門なんて。湊くんが無事なら、それでいい」
紬が俺の腕を支える。その様子を、玲華は複雑な表情で見つめていた。
「九条湊。あなたは、数字をただの道具ではなく、武器として使った。……認めますわ。あなたの提案には、検討する価値があるかもしれない」
玲華が歩み寄り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「ですが、一つ条件があります。三ヶ月後の利益目標。それを達成するまでは、私はあなたの『監視役』として、この宿に留まります。……もちろん、私の滞在費は、あなたの言う『感情資産』で支払ってもらいますわよ?」
彼女の口元に、初めて小さな、挑戦的な笑みが浮かんだ。
俺は、彼女に手を差し出した。
「歓迎するよ。白金玲華。……君の計算能力があれば、この国の再建はさらに加速する」
紬という「癒やし」と、玲華という「知性」。二人のヒロインが、ついに俺の元に揃った。
だが、これはまだ、九条屋という小さな城を守ったに過ぎない。
俺たちの本当の敵は、この国を租借地へと変え、国民の魂まで買い叩こうとしている、巨大な世界経済そのものなのだから。
「さあ、始めようか。世界を買い戻すための、最初の一歩を」
十六歳の九条湊は、壊された門の先にある、沈みゆく夕日を睨みつけた。その瞳には、すでに数千兆円規模の「逆転の数式」が描き出されていた。




