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第5章:最初の「顧客」と、牙を剥く特区

 白金玲華が九条屋に滞在し始めてから、三日が経過した。

 老舗旅館の空気は、彼女という異分子が加わったことで劇的な変容を見せている。ロビーの片隅には彼女が持ち込んだ最新鋭のサーバー端末が鎮座し、古びた空間に電子音と青白い光が混じり合う。


「九条湊、この旅館の固定資産税と、過去十年の修繕履歴を照合しましたわ。……結論から言えば、この宿は『生きた屍』です。普通のアナリストなら、一秒迷わず破産を勧めます」


 玲華はタブレットを叩きながら、容赦ない現実を突きつけてくる。彼女の瞳には、常にこの世界の「最適解」を導き出そうとする冷徹な光が宿っていた。


「死んでいるかどうかは、俺が決めることだ。玲華、お前には負債の計算ではなく、この宿が『いくら稼げるか』の限界値を算出してもらいたい」


「稼げる限界? 湊くん、今の予約表を見て。今週末だって、一組も入っていないんだよ……」


 紬が申し訳なさそうに、真っ白な予約台帳を差し出す。

 温泉街の入り口に、レヴィアタン社が運営する租借地直営のメガ・リゾートができて以来、九条屋のような旧来の旅館に足を運ぶ客は皆無だった。


「客が来ないなら、こちらから『選んで』呼ぶまでだ」


 俺は経営眼を研ぎ澄ませ、租借地へと流れていく顧客データの奔流を視認した。

 きらびやかなカジノ、二十四時間稼働するナイトクラブ、そして他国の通貨が飛び交う治外法権の街。そこには確かに金があるが、同時に猛烈な「精神の摩耗」が渦巻いている。


「ターゲットを絞る。レヴィアタン極東支部の最高責任者、ハンス・ルードリッヒだ」


 玲華の手が止まった。


「ハンス……? 本気ですの? 彼は租借地の拡大を推し進める、この地域における『征服者』の代行者。日本を最も安く買い叩くことに心血を注いでいる男ですわよ。そんな人間が、このボロ旅館に来るはずがありません」


「来るさ。彼は今、猛烈に飢えているからな」


 俺の経営眼が捉えたハンスのステータスは、異常な数値を叩き出していた。


「対象:ハンス・ルードリッヒ」

「精神疲労度:92/100」

「渇望:数字では測れない『真正な平穏』」

「裏ステータス:母国での政争に敗れ、極東へ左遷されたことによる強い自己喪失感」


 租借地を支配する側もまた、そのシステムの歯車に過ぎない。俺たちが売るべきは、彼が失った「誇り」と「安らぎ」を取り戻すための舞台装置だ。


「玲華、お前はハンスの好む音楽、室温、光の屈折率を過去の行動データから完璧に再現しろ。紬、お前は彼が子供の頃に食べたであろう『家庭の味』を、日本の食材で再定義するんだ。いいか、媚びるんじゃない。圧倒的な『精神的優位』を突きつけるんだ」


 二人は顔を見合わせた。

 突拍子もない提案だが、俺の瞳に宿る確信に抗う術を、彼女たちは持っていなかった。


 翌日。

 九条屋の門前に、租借地の紋章を刻んだ重厚な防弾リムジンが到着した。

 車から降りてきたのは、彫りの深い顔立ちに疲労を滲ませた、巨漢の外国人男性だった。


「……ここが、レヴィアタンの買収リストの末尾にある、ゴミ溜めか?」


 ハンスは不機嫌そうに、直されたばかりの門を見上げた。

 俺はロビーの中央で、彼を真っ向から見据えた。


「ようこそ、ハンス・ルードリッヒ。あなたが今、世界で最も必要としている場所へ」


「生意気な小僧だ。……私に何を見せるつもりだ? 租借地の豪華ホテル以上のものが、このボロ家にあるというのか」


「ああ。ここにあるのは『時間』だ。あなたが捨て去ったはずの、人間らしい時間だ」


 俺の合図で、紬が香炉に火をつけた。

 漂うのは、白檀の香りと、雨上がりの土のような、どこか懐かしい日本の匂い。

 玲華が制御する照明システムが、西日を計算し尽くされた陰翳へと変え、障子の向こう側に幻想的な竹林の揺らぎを映し出す。


「……っ」


 ハンスの息が止まった。彼は無意識に、きつく締めていたネクタイを緩めた。

 経営眼が、ハンスの精神疲労度が急速に「緑」へと変化していくのを捉える。


「さあ、奥へ。あなたのための、最初のコンサルティングを始めましょう」


 十六歳の九条湊。

 国家の敵であるはずの「征服者」を最初の客として招き入れるという狂気。

 だが、これこそが日本を取り戻すための、最も合理的で冷徹な「買収」の第一手だった。

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