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第2章:安らぎの価値と、反撃の号砲

 九条屋の朝は、絶望的な静寂と共に明ける。

 かつては宿泊客の下駄の音が響いた廊下も、今は湿り気を帯びた古い木の匂いが停滞しているだけだ。


 俺は客室の一つにこもり、経営眼を全開にして九条屋の「貸借対照表」を空中に投影していた。脳裏に浮かぶのは、膨大な負債の山と、右肩下がりのキャッシュフローを示す無慈悲な赤い折れ線グラフだ。


「……やはり、設備投資に回す資金が絶望的に足りないな」


 脳を焼くような痛みが走る。経営眼で視る「数字」は、この世界の真実だ。嘘や虚飾を剥ぎ取った生々しい現実が、容赦なく俺の精神を削っていく。

 視界がチカチカと赤く明滅し、平衡感覚が狂い始める。この能力は、俺の魂そのものを燃料にしているようなものだ。


「湊くん、入るよ」


 控えめなノックの音と共に、紬が盆を持って入ってきた。彼女の姿が視界に入った瞬間、猛烈なノイズがスッと引いていく。紬の周囲だけが、凪のような穏やかな緑色の数値で安定している。彼女の存在自体が、オーバーヒートした俺の脳に対する冷却材クーラントとして機能しているのだ。


「また難しい顔して……。これ、食べて。昨日の残りだけど、お粥にしたから」


 紬が差し出したのは、土鍋で炊かれたシンプルな白粥と、自家製の梅干し、それに薄く切られた出し巻き卵だった。湯気と共に立ち上る香りを、経営眼で分析する。


「対象:紬の特製粥」

「付加価値:精神安定、滋養強壮」

「推定顧客満足度:98%」


 一口、口に運ぶ。

 米の甘みと、丁寧にとられた出汁の旨みが五臓六腑に染み渡る。前世で二十四時間戦い続けていた頃、俺が最も欲していたのは、高級フレンチでも会員制のバーでもなく、こういう「魂を休める食事」だったのではないか。


「……美味いな。紬、お前は天才だ」


「もう、お粥くらいで大げさだよ」


 紬は照れくさそうに笑うが、その数値は嘘を吐かない。彼女の料理には、この国の富裕層が租借地のカジノや豪華ホテルでいくら金を積んでも手に入らない「安らぎ」という名の希少価値が詰まっている。


「紬。俺たちが勝つための武器は、このお粥だ」


「えっ? お粥で、あの銀行の人に勝つの?」


「正確には『お粥に象徴される、失われつつある日本の原風景』だ。いいか、鰐淵の背後にいるレヴィアタン社は、徹底した効率と合理性だ。彼らのホテルには最新の設備と最高のサービスがあるが、そこには『心』がない」


 俺は立ち上がり、窓の外に広がる寂れた温泉街を見下ろした。遠くの丘の上には、租借地を象徴する巨大なネオンサインが、日本の法律をあざ笑うように輝いている。あそこには、この国を買い叩き、植民地のように扱う特権階級が集まっている。


「彼らは、数字で買える快楽には飽きている。だが、数字では決して作れない、真心や情緒には飢えているはずだ。俺たちはそこを突く」


「湊くんの言うことは、時々難しくてよくわからないけど……。私が美味しい料理を作ればいいってこと?」


「ああ。それも、ただの料理じゃない。客の『人生の欠損』を埋める究極の体験だ。……そのために、まずは一組。最高のカモ、いや、最初のお客様を招待する」


 俺の脳内で、ターゲットとなる人物のリストが高速で精査されていく。

 GDP67位。他国の顔色を窺うだけの政治家。だが、その中にも、現状に絶望し、かつての誇りを取り戻したいと願う「真の愛国者」は残っているはずだ。


 俺は机の上の古い電話を手に取った。

 前世で培った、政財界の闇に食い込む人脈の「端くれ」が、この世界でも有効かどうかを確かめる時だ。


「……紬。今日から三日間、お前の全神経を研ぎ澄ませてくれ。九条屋の再建は、今、この瞬間から始まる」


 紬は俺の真剣な眼差しに気圧されたように、だが真っ直ぐに俺を見つめ返した。


「わかった。湊くんを信じる。私、最高の献立を考えるね」


 彼女が部屋を出ていく。入れ替わるように、俺の視界には新たな警告が浮かび上がっていた。


「外部からの干渉を検知:鰐淵による執拗な身元調査」

「不穏な動き:地元商店街の一部によるボイコット計画」


 九条屋を潰そうとしているのは、銀行だけではない。租借地の恩恵に預かろうとする、同胞たちの裏切りもまた、この国の現実だった。


「……いいだろう。まずは、この街の『腐敗した膿』から出してもらうとするか」


 十六歳の九条湊は、前世で「処刑人」と呼ばれた頃の冷徹な微笑を浮かべた。

 数字の刃で、この腐りきった構造を斬り裂くために。

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