第1章:斜陽の宿と、租借地の影
五月の風は心地よいはずなのに、北関東の温泉街、ここ「九条屋」の空気は淀んでいた。
俺が九条湊として、この世界での記憶と自我を完全に統合したのは、高校に入学してすぐの春だった。鏡に映るのは、少し線の細い、黒髪の少年。十六歳。
ここは、五十年前の災厄を経て「多妻婚法」が施行された、俺の知る歴史とは異なる日本だ。
かつての日出づる国は、今や見る影もない。
テレビのニュースでは、連日のように租借地の拡大が報じられている。北海道のニセコ、沖縄の石垣島、そして横浜や神戸の一部までもが、外国資本に九十九年間の租借権を奪われ、実質的な治外法権の島と化していた。
かつてGDP2位を誇った国は、今や67位。若者は国外へ出稼ぎに行き、残されたのは莫大な負債と、切り売りされる国土だけだ。
そんな閉塞感を打破するために政府が数十年前に導入した禁じ手が、多妻婚法――別名「世帯法人化政策」だった。
もはや公的な社会保障が崩壊したこの国で、国は個々の国民を救うことを諦めた。代わりに、経済力と能力のある男を「家長(CEO)」とし、複数の妻を「共同経営者」とする、家庭という名の最小最強の企業体を作ることで資本の集約を図ったのだ。
優秀な男には多妻補助金という名の投資が下り、複数の妻と資産を統合して効率的に次世代を育成する特権が与えられる。一方で、能力のない男には独身重税が課され、家族を持つことすら許されない。
つまり、この世界での結婚は、純粋な愛の結晶であると同時に、国家生き残りのための「生存を懸けた合併」を意味していた。
だが、その制度も今や、既得権益を持つ一部の富裕層が、若い女性と資産を独占するためのツールに成り下がっているのが現実だ。
「――それで、九条さん。もう決心はつきましたか?」
低く、粘着質な声がロビーに響く。老舗旅館「九条屋」のボロボロの帳場で、父、宗一の対面に座るのは、地元銀行の融資担当、鰐淵という男だ。
「いいですか、九条さん。このエリア一帯は、もうじき『大ユーラシア連邦』の特別経済協力区……実質的な租借地になることが内定しています」
鰐淵は、安物のネクタイをいじりながら、勝ち誇ったように書類を叩いた。
「このボロ旅館に、もはや価値はありません。ですが、我が行と提携している外資系ホテルチェーン『レヴィアタン』に土地を譲り渡すなら、今ある借金はすべて帳消しにしましょう。どうです、悪い話じゃないでしょう?」
父の宗一が、震える手で茶を啜る。
「……だが、ここは先祖代々の土地だ。租借地になれば、日本の法律すら届かなくなる。それに、ここで働く従業員たちはどうなるんだ?」
「彼らには、レヴィアタンの清掃員としての口を斡旋してあげますよ。時給は……まあ、今の日本円の価値だと、今の半分くらいになってしまうかもしれませんがね。ははは!」
鰐淵の下品な笑い声が、閑散としたロビーに響く。
俺は柱の陰で、視界に力を込めた。
経営眼。
ズン、という重苦しい感覚と共に、世界が数字で構成される。
「対象:鰐淵誠」
「裏ステータス:レヴィアタン社より秘密口座に三千万のキックバック予定」
「目的:九条屋を破産させ、租借地の玄関口として割安で接収すること」
さらに、俺の脳内に、この地域のマクロ経済データが流れ込んでくる。
「エリア:北関東・水ノ守温泉」
「経済的地位:壊滅的(実質、外資の植民地一歩手前)」
「日本政府の介入度:0%(放棄済み)」
脳が焼けるような痛みに襲われる。前世で限界まで働いた俺の魂が、この絶望的な数字に拒絶反応を示している。だが、同時にコンサルタントとしての血が沸き立つのを感じた。
(ふざけるな……。こんな汚い帳簿、俺の目の前で通ると思うなよ)
「――その契約、少し待ってもらえませんか」
俺はロビーの中央へ踏み出した。
「なんだ、湊。お前は部屋に戻っていろ」
父が焦って俺を制そうとするが、鰐淵は鼻で笑った。
「おやおや、跡取り息子さんのご登場ですか。子供が経済の議論に首を突っ込むもんじゃありませんよ」
「経済ですか? 鰐淵さん、あなたが言っているのは、ただの『利益誘導』でしょう」
俺は鰐淵の目の前に座り、彼の持ってきた書類を指先で弾いた。
「レヴィアタン社の直近の財務諸表、見ましたか? あそこは今、本国での不動産バブル崩壊で火の車だ。この土地を租借地化して資産価値を水増しし、延命しようとしているだけ。つまり、彼らには九条屋を再建する気なんてさらさらない。土地を担保に金を借りたら、三ヶ月後には転売して消えますよ」
鰐淵の顔から、余裕の笑みが消えた。
「な、何を根拠に……」
「根拠? あなたの頭の上に書いてありますよ。……いや、こっちの計算書が正しい。九条屋には、まだ『含み資産』がある。そして俺には、三ヶ月でこの宿の営業キャッシュフローを十倍にする策がある」
俺は懐から、一冊の古いノートを取り出した。それは、俺がこの数日間で経営眼を使い、命を削って書き上げた「九条屋・国家奪還計画」の第一歩だ。
「三ヶ月待ってください。もし、俺が立てた目標利益を達成できなければ、この宿も、俺の『家長権』も、好きにしてください」
多妻婚法における、将来の家長としての権利。それを担保に差し出すという言葉に、鰐淵の目がぎらついた。この国において、優秀な家系の「枠」は、金以上に価値がある。
「……面白い。そこまで言うなら、待ちましょう。ただし、一円でも足りなければ、即座に追い出しますからね」
鰐淵が去った後、ロビーには静寂と、父の溜息が残った。
そこへ、調理場から小走りで少女がやってきた。
「湊くん! また無茶して!」
幼馴染の椎名紬だ。彼女は不安そうに俺の顔を覗き込み、冷たいおしぼりを俺の額に当てた。
「……紬。ごめん、少し目を使いすぎた」
彼女の温もりが、オーバーヒートした俺の脳を優しく冷やしていく。不思議なことに、紬が側にいると、視界の数字が「赤」から「緑」へ、安定した数値に変わる。
「売上十倍なんて、どうするの? お客さんなんて、もう租借地のカジノにしか行かないのに……」
「カジノに飽きた富裕層が、次に何を欲しがるか。それは『数字で買えない本物の日本』だ。それを紬、お前の料理と、俺の戦略で作るんだ」
俺は紬の手を握りしめた。
「ここを、日本を取り戻すための不落の城にする。ついてきてくれるか?」
紬は、戸惑いながらも、力強く頷いた。
GDP67位。租借地化される国土。絶望の底にあるこの国で、一人の高校生が、世界を買い戻すための第一歩を踏み出した。




