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第19章:深淵への回廊、あるいは沈黙の接吻

 海上都市「アビス」。それは国家という概念を嘲笑うかのように、公海上の漆黒の海面に浮かぶ、幾何学的な鉄とガラスの要塞だった。

 九条屋の自家用ジェット――ハンス・ルードリッヒが「先行投資」として提供した最新鋭機――の窓から見下ろすその姿は、海に突き刺さった巨大な墓標のようにも見えた。


 機内のラウンジには、重苦しい沈黙が流れている。

 湊は一人、深くソファに身を沈め、窓の外を流れる雲海を見つめていた。その脳内では、断続的に黄金色の数式が火花を散らしている。経営眼ビズ・アイが、未知の脅威を前にして過剰な自己防衛反応を起こしているのだ。


「……湊、あまり根を詰めないで」


 隣に座った玲華が、冷たいシャンパンのグラスをテーブルに置き、そっと湊の手を握った。彼女の指先は微かに震えている。どれほど優れたアナリストであっても、これから向かう場所が「理外」の領域であることを理解しているのだ。


「分かっている。……だが、ヘキサゴンの創始者が提示する『世界の清算』という言葉が、どうしても引っかかる。彼らは数字の向こう側に、一体何を見ているんだ」


「それを見極めるのが、私たちの仕事ですわ。……あなたは盤面を支配しなさい。データの裏付けは、私が命に代えても完遂します」


 玲華は湊の肩に頭を預け、小さく吐息をついた。その横顔は、戦士のそれではなく、ただ夫との永遠の別れを恐れる一人の女の顔だった。


 機体の後方から、香ばしい出汁の香りが漂ってきた。

 紬が、小さな保温容器を抱えて現れる。彼女は湊の前に膝をつくと、まるでお守りでも渡すかのように、温かいおにぎりを差し出した。


「湊くん、これ食べて。中身は、特区で一番最初に収穫できた梅干しだよ。……どんなに偉い人が怖いことを言っても、この味を忘れないで」


「……ああ。紬、お前がつくる米の味こそが、俺の最後のアンカーだ」


 湊がおにぎりを口に運ぶと、酸味と共に、九条屋の台所で過ごした穏やかな記憶が蘇る。暴走しがちな思考が、確かな重みを持って肉体へと戻ってくる感覚。


「陽葵も、準備万端だよ……!」


 陽葵が、特殊な遮断回路を組み込んだ中継用デバイスを抱えて、気合を入れるように自分を抱きしめた。


「アビスの中は、普通の電波は通らない。でも、玲華ちゃんが作ってくれたこの『共鳴ポート』なら、特区のみんなと繋がれる。……湊くんが一人じゃないってこと、全世界に証明してあげるんだから」


 三人の少女たちの視線が、湊一点に集まる。

 癒やしの紬、知性の玲華、希望の陽葵。

 この「三位一体トリニティ」の絆こそが、数千兆円の資本よりも強固な、湊にとっての唯一の武器だった。


「――間もなく、アビスに着陸します」


 非情なアナウンスが流れ、機体が降下を始める。湊は立ち上がり、三人の肩を抱き寄せた。


「いいか。これから俺たちは、世界の深淵を覗き込む。だが、深淵に覗き返される必要はない。……俺たちが創るのは、数字に支配される世界じゃない。人が、人を愛することで価値を生む世界だ」


「……はい、湊くん」

「……ええ、あなたと共に」

「……うん、行こう!」


 ハッチが開くと、そこには潮騒の音さえも吸い込むような、無機質な黒い大理石の回廊が続いていた。

 奥からは、車椅子の軋むような音が聞こえてくる。


「ようこそ、九条湊。……そして、美しき協力者たちよ」


 影の中から現れたのは、あまりにも虚弱で、透き通るような肌をした一人の老人だった。彼の周囲には、いかなる電子機器も存在しない。ただ、彼の瞳だけが、湊と同じ「黄金色の輝き」を放っていた。


「……君も、視えるのか」


 湊が問いかけると、老人は悲しげに微笑んだ。


「視えるとも。……そして、視えすぎるがゆえに、私はこの世界を一度『初期化』することに決めたのだ。……九条湊、君にその覚悟があるか?」


 十六歳の少年と、世界の支配者。

 人類の運命を左右する「最後の商談」が、公海上の暗闇の中で、静かに、そして苛烈に幕を開けた。

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