第17章:ヘキサゴンの猛攻と、三位一体(トリニティ)の盾
決戦の朝、特区の空気は刺すような緊張感に包まれていた。
九条屋の地下指令室には、世界中の主要市場から送られてくるリアルタイム・チャートが壁一面に投影されている。そのすべてが、不気味なほどの「静寂」を保っていた。暴風雨の前の、あの嫌な静けさだ。
湊は、紬が淹れてくれた熱いコーヒーを一口飲み、脳を極限まで加速させた。
隣では玲華が、数台の端末を同時に操りながら、ヘキサゴン・キャピタルの動向を監視している。
「来ましたわ。……ロンドン、ニューヨーク、香港。全市場で、特区ポイントに対する天文学的な規模の売り注文が投げ込まれました。……彼ら、本気でこの国の息の根を止めに来ましたわね」
玲華の声は、鋭い氷の刃のように冷徹だった。モニターに映し出されたグラフが、垂直に近い角度で急落を始める。
「経営眼」
湊の視界が黄金色に染まる。
ヘキサゴンが投下した資本の総額は、一国の国家予算を遥かに凌駕していた。それは数字という名の暴力であり、意思を持った津波だった。
「……湊くん! SNSやニュースサイトが、特区のデマで溢れかえってる! 『九条屋が倒産する』とか『湊くんが海外に逃亡した』とか……みんな、不安でパニックになりかけてるよ!」
陽葵が、悲鳴に近い声を上げた。彼女のタブレットには、急速に拡散される悪意あるフェイクニュースの奔流が映し出されている。これこそがヘキサゴンの狙いだ。市場を暴落させ、大衆の心理を折り、実体経済を内側から腐らせる。
「……紬。お前にしかできない仕事がある」
湊は、震える陽葵の肩を抱きしめようとしていた紬を振り返った。
「私が……? でも、私は数字なんて……」
「数字はいらない。お前は、九条屋の『日常』を、ただいつも通りに守り抜いてくれ。……特区の全住民に向けて、炊き出しの準備を始めてくれ。最高に美味くて、心が温まる、いつもの味噌汁だ」
紬は一瞬、目を見開いた。だが、湊の瞳に宿る絶対的な確信に触れ、力強く頷いた。
「わかった。私、みんなの心を温めてくる。……湊くん、信じてるからね」
紬が部屋を飛び出していく。
湊は再びモニターに向き直り、玲華と陽葵に指示を飛ばした。
「玲華、ヘキサゴンの空売りをすべて『九条グループ』で買い支える。ただし、一点に集中させるな。……彼らが『底』だと思った瞬間に、我々が隠し持っていた外資系ファンドの債権を一斉に市場へ放出する。彼らを買い戻しのパニックに叩き落とすんだ」
「……ショート・スクイーズ(踏み上げ)を誘発させるつもりですわね。ですが湊、それには莫大な現物資産が必要ですわ。今の私たちに、それだけの……」
「あるさ。……陽葵、配信を開始しろ。ターゲットは特区の住民じゃない。世界中の『持たざる投資家』たちだ」
陽葵が、震える指でスタートボタンを押した。
画面に映し出されたのは、湊の冷徹な、しかし情熱を秘めた姿だった。
「――世界中の皆さん。今、強欲な資本が、私たちの『平穏』を奪おうとしています。ですが、見てください。私たちの街では今、一人の少女が、隣人のために温かい食事を用意しています。……この『信頼』に、一体いくらの値がつくと思いますか?」
陽葵のカメラが、炊き出しを行う紬と、それを受け取り、笑顔を取り戻していく住民たちの姿を捉える。
「私は、この特区の株を、今この瞬間から全世界の個人投資家に開放します。……一円からでいい。巨大な資本に踏みにじられる側ではなく、新しい世界を『創る』側に回りたい者は、我々に力を貸してほしい」
湊の言葉は、陽葵の拡散力によって、瞬く間に世界中へと広がっていった。
最初は、一ドル、十円といった小さな買い注文だった。
だが、それが数百万、数千万という塊となり、ヘキサゴンが作り出した巨大な売り圧力を押し返し始めた。
「……っ、信じられませんわ! 世界中の個人口座から、特区ポイントへの買い支えが殺到しています! 買い戻しの連鎖が止まりません! ヘキサゴンの損失額、すでに三兆を超えましたわ!」
玲華が歓喜の声を上げる。
湊の脳内では、黄金色の数式が爆発的な輝きを放っていた。
巨大な資本という名の怪物が、名もなき人々の「信頼」という名の結束に、足元から食い荒らされていく。
「……これだ。これこそが、俺が作りたかった新しい経済の形だ」
戦いはまだ続いている。だが、地下指令室には、勝利への確かな予感が満ちていた。
ふと、湊は気づいた。
玲華が、モニターを見つめたまま、そっと湊の手を握っていることに。
「……湊。……私、あなたを信じて正解でしたわ。……これなら、世界だって本当に買い戻せるかもしれませんわね」
玲華の頬が、微かに赤らんでいる。
戦場の中心で、俺たちは一つの「家族」として、世界を相手に史上最大の逆転劇を演じていた。




