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第16章:世界経済の刺客と、不穏な影

 九条屋の縁側に流れる穏やかな時間は、一通の赤い「招待状」によって破られた。

 それは紙媒体ではなく、空中に投影されたホログラムの暗号。発信元は、世界最大の投資銀行にして、レヴィアタン社をも裏で操る超国家組織「ヘキサゴン・キャピタル」だった。


 特区として独立歩調を強める九条湊に対し、ついに「世界」が直接の介入を決定したのだ。


「……湊。これ、ただの会談の誘いではありませんわ」


 玲華がタブレットの解析画面を湊に向けた。彼女の顔からは先ほどの安らぎが消え、戦う女の鋭い顔つきに戻っている。


「招待状に埋め込まれたナノ・コードを解析しましたが、これは実質的な『経済的宣戦布告』です。彼らは一週間後、この特区を標的とした史上最大規模の『空売り』を仕掛けるつもりですわ。……特区ポイントの価値を紙屑に変え、あなたの築いた信頼を物理的に破壊するために」


 空売り。対象の価値が下がることに賭け、暴落を加速させて利益を得る、市場のハイエナたちの常套手段だ。


「なるほど。武力で制圧できないと悟って、今度はマネーの物量で俺たちの『心』を押し潰しに来たか」


 湊は冷たく笑い、ゆっくりと立ち上がった。

 経営眼ビズ・アイを起動せずとも、これから起きる事態の凄惨さが予測できる。もし特区ポイントが暴落すれば、せっかく戻ってきた住民たちの生活は再び崩壊し、九条屋への信頼は憎悪へと変わるだろう。


「湊くん、大丈夫……? 私、なんだか胸がざわざわするの」


 紬が、湊の着物の袖をぎゅっと掴んだ。

 彼女の鋭い直感は、いつも論理を超えて危機の本質を捉える。


「心配ないよ、紬。彼らは致命的な勘違いをしている。……彼らが信じているのは『奪うための数字』だ。だが、俺たちが持っているのは『守るための絆』だ」


「湊くん……。陽葵も、準備するね。今度は日本だけじゃない、世界中の投資家に、私たちの『本当の価値』をぶつけてあげる」


 陽葵が、自身の配信機材を抱えて力強く頷いた。


「玲華。世界中の『ヘキサゴン』に反旗を翻している小規模ファンド、それから租借地化に怯えている他国の独立勢力のリストを洗い出せ。……毒をもって毒を制す。彼らの空売りを、逆に史上最大の『買い戻し』の踏み台にしてやる」


「……ふふ、やはりそう来なくては。湊、あなたのその傲慢なまでの自信、嫌いではありませんわよ」


 玲華の指先が、再び死の旋律のような高速タイピングを刻み始めた。


 その夜。

 戦いを前にした最後の静寂の中、湊は一人、露天風呂に浸かっていた。湯煙の向こうには、特区の街明かりがかつてよりも力強く輝いている。


 そこへ、足音を忍ばせて誰かが近づいてきた。


「……湊くん」


 振り返ると、そこには薄い湯浴み着一枚を纏った紬が立っていた。湿った空気が彼女の白い肌に張り付き、月光に照らされたその姿は、この世のものとは思えないほどに美しい。


「紬。……どうした、まだ起きていたのか」


「一人だと、どうしても怖くなっちゃって……。明日からの戦い、湊くんが遠くに行っちゃう気がして」


 紬はそのまま、躊躇うことなく湯船へと足を入れた。お湯が溢れる音と共に、彼女の柔らかな体温が湊の隣に寄り添う。


「……行かないよ。俺の居場所は、ここしかない」


 湊は、紬の細い肩を抱き寄せた。彼女の首筋から漂う、湯の香りと、彼女自身の甘い匂い。

 

「湊くん……。私、ずっと湊くんの隣にいたい。……多妻婚法とか、特区とか、そんなの全部関係なく、湊くんのことが……」


 紬の瞳が、涙で潤んでいる。湊はその唇を、優しく、しかし確かな所有の意志を持って塞いだ。

 

 明日からは、世界を相手にした孤独なマネーゲームが始まる。

 だが、この瞬間の熱、この腕の中にある確かな生命の鼓動こそが、湊にとっての唯一の真実だった。


「……ああ、わかっている。俺もだ、紬」


 闇の中で重なる二人の影。

 それは、巨大な資本という名の暴力に立ち向かう、あまりにも小さく、けれど決して折れることのない、世界で最も尊い「一歩」だった。


 特区の夜は更けていく。

 だが、その闇の先には、世界経済を根底から覆す、最も熱く、冷徹な「審判の日」が待ち構えていた。

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