第15章:新世界の朝食と、黄金色の地平
九条屋の朝は、かつてないほどに澄み切った静寂と共に訪れた。
地下指令室の重苦しい電子音や、モニターが放つ暴力的な光はない。障子の隙間から差し込む朝日は、長い戦いを終えた俺たちの肌を、穏やかな黄金色に染め上げていた。
俺は一人、旅館の縁側に座り、湯気の立ち上る茶を啜っていた。
経営眼はオフにしている。脳を焼き尽くすような数式の奔流も、他人の醜い欲望を数値化する赤いノイズもない。視界にあるのは、ただ瑞々しく濡れた庭の苔と、遠くの山々を包む朝霧だけだ。
「……湊くん、やっぱりここにいたんだね」
廊下から、聞き慣れた柔らかな足音が聞こえてきた。
紬だ。彼女は湯気の立つ大きな土鍋を抱え、少しだけ眠たげな、けれど最高に幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「おはよう、紬。……昨夜は、よく眠れたか?」
「うん。湊くんの隣にいたら、なんだかすごく安心して……。起きたら、世界が本当に変わっちゃったんだなって、やっと実感が湧いてきたよ」
紬は俺の隣に腰を下ろし、土鍋の蓋を開けた。
立ち上る湯気と共に、炊きたての白米の甘い香りと、丁寧に引かれた出汁の匂いが鼻腔をくすぐる。それは、数兆円規模の契約書よりも、俺の生存本能を強く刺激した。
「今朝は、北海道から届いた一番の鮭と、この裏山で採れたばかりのキノコでお粥にしたよ。湊くん、脳をたくさん使ったから、優しい味が一番いいかなって」
「……ああ、最高だ。紬、お前の料理こそが、この国の失われたGDPそのものだよ」
俺が茶化すと、紬は「もう、すぐそうやって数字の話にするんだから」と、頬を膨らませて笑った。
「あら。その『数字』こそが、今や世界中を震撼させている唯一の指標であることを忘れてもらっては困りますわね」
凛とした声と共に、玲華が姿を現した。
彼女は既に隙のないブラウス姿に着替えていたが、眼鏡の奥の瞳には、まだ昨夜の「共犯者」としての甘い余韻が微かに残っている。彼女の手には、いつものタブレットではなく、一冊の古い経済学の専門書が握られていた。
「湊。あなたが昨夜実行した『国家予算の組み換え』により、円の価値は暫定的に特区ポイントと連結され、安定期に入りました。……市場は、あなたの『家』を、既存の政府よりも信頼できる投資先だと判断したようですわ」
玲華は俺の反対側に座り、紬が注いだ茶を優雅に受け取った。
「玲華、仕事の話はあとだ。今は、このお粥を味わう権利が俺たちにはある」
「……ふふ。そうですわね。今日くらいは、アナリストとしての私ではなく、あなたの『妻』としての私でいさせていただけますか」
玲華が、ほんのりと頬を染めて俺の肩に頭を預ける。
その瞬間、庭の向こうから「待って待ってー! 陽葵も仲間に入れて!」と、賑やかな声が響いた。
陽葵が、スマートフォンを三脚に立てた状態で走ってくる。
彼女はそのまま、俺の膝の上に飛び込むようにして座り込んだ。
「見て見て、湊くん! 私の配信、同時接続数が世界記録を更新しちゃった! ……『新生日本、最初の朝食ライブ』。今、何千万人もの人が、私たちのこの幸せそうな顔を見てるんだよ」
陽葵が掲げた画面の中では、無数の温かいコメントが滝のように流れていた。
暴力でも、搾取でもない。ただ一人の少年と、彼を愛する三人の少女が、静かに朝食を摂る。その当たり前の光景が、租借地という名の地獄に慣らされていた人々にとって、どれほどの救いになっているかは想像に難くない。
「……陽葵、お前は本当に、この国の『心』を繋ぐ天才だな」
「えへへ。湊くんが場所を作ってくれて、紬ちゃんが胃袋を掴んで、玲華ちゃんが頭脳を守ってくれる。……だから、陽葵は皆の気持ちを笑顔に変えるだけだよ」
俺は、隣り合う三人の少女たちの温もりを全身で感じていた。
多妻婚法。それは本来、才能を独占するための歪なシステムだったかもしれない。だが、俺たちの場合は違った。互いの欠損を埋め合い、一つの巨大な「幸福の生産拠点」となるための、必然の形だったのだ。
俺は、紬が差し出した最初の一口を口に運んだ。身体の隅々にまで、滋養が染み渡っていく。
「……いいか、皆。これからが、本当の戦いだ」
俺は、三人の瞳を順番に見つめて言った。
「権藤は去ったが、レヴィアタンの本社、そして日本を食い物にしようとする他国は、まだ牙を隠している。……だが、俺たちはもう、数字だけの操り人形じゃない」
俺は空を見上げた。
そこには、かつて見たような暗雲はなく、どこまでも続く蒼天が広がっている。
「俺たちが提示するのは、GDP(国内総生産)ではない。GNH(国民総幸福)……いや、それを超える『GKH(九条家総幸福)』だ。この家が幸せである限り、この特区は、そしてこの国は、世界で最も強固な経済圏であり続ける」
「湊くんの言うこと、やっぱり難しいけど……」
紬が、俺の手を優しく握りしめた。
「……私、湊くんが笑っていてくれたら、それでいいよ。そのために、明日も美味しいご飯を作るね」
「私も。あなたの計算式に、常に『愛』という名の特異点を挿入し続けますわ」
玲華が、いたずらっぽく微笑む。
「陽葵も! 湊くんのカッコいいところ、世界中に自慢し続けちゃうんだから!」
十六歳の九条湊は、三人の愛する家族と共に、最後の一口を飲み込んだ。脳内の経営眼が、一瞬だけ黄金色に輝く。だが、そこに表示されたのは、負債の計算でも敵の排除率でもなかった。
「予測:九条家の永続的幸福度――測定不能(∞)」
俺は、差し出された三人の手を、力強く握り返した。
世界を買い戻す旅は、まだ始まったばかりだ。けれど、この朝食の味を知っている俺たちに、もはや敗北という文字は存在しなかった。




