第12章(閑話):不落の城の情景、あるいは経営陣の休息
レヴィアタン・タワーでの大立ち回りから数日。北関東の山間に抱かれた九条屋は、かつての静寂を取り戻していた。しかし、その静寂は以前のような死を待つ類のものではなく、次なる跳躍を前に深く息を潜める、力強い胎動を孕んだものだった。
深夜。
湊は主の間にあてがわれた書斎で、数多のホログラムウィンドウに囲まれていた。指先一つで動くのは、数千億の資金流動と、再編される特区の行政機構。経営眼を酷使する彼の瞳は、薄暗い室内で微かに黄金色の燐光を放っている。
「……湊くん。まだ、起きてたの?」
ふわり、と。夜の冷気を和らげるような、甘い出汁と白檀の香りが部屋に満ちた。
振り返らなくてもわかる。湊にとって、世界で最も心安らぐ足音の主だ。
紬が、湯気の立つ湯呑みを盆に載せて入ってきた。寝間着の上に羽織った厚手の半纏が、彼女の柔らかな輪郭をさらに強調している。
「少し、数字の整理をしておきたくてな。特区の基盤を固めるには、今夜が山場だ」
「もう。タワーの時だって、あんなに無理したのに。はい、これ。ハーブを少し混ぜたほうじ茶。頭が休まるよ」
紬は湊の背後に回り込み、デスクの空いたスペースに茶を置くと、そのまま彼の肩に細い指を添えた。
柔らかな指先が、凝り固まった湊の筋肉を解きほぐしていく。彼女が触れる場所から、刺すような脳の熱が引き、穏やかな緑色の平穏が戻ってくる。
「……ああ、助かるよ。紬、お前がそばにいると、経営眼の反動が嘘のように消えるんだ」
「それ、前も言ってたね。私には難しい理屈はわからないけど……湊くんが一番頑張ってるのは、ちゃんと見てるから」
紬は湊の首筋に顔を寄せ、小さく吐息をついた。
彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐり、湊の意識をビジネスの世界から、もっと根源的な、一人の男としての領域へと引き戻していく。
「お楽しみのところ失礼いたしますわ、お二人さん。……ですが、独占禁止法に触れるような行為は、この家の規律として看過できませんわね」
廊下から、少しだけトゲのある、けれどどこか弾んだ声が響いた。
扉が開くと、そこには眼鏡を外し、長い黒髪を無造作に下ろした玲華が立っていた。彼女の手には、湊のものとは別の、しかし同様に高機能なタブレットが握られている。
「玲華。お前もまだ起きていたのか」
「特区の税率計算を終えるまでは、眠れるはずがありませんわ。……それに、紬さんがこっそりあなたの部屋へ行くのを見かけて、財務担当としてはチェックを入れざるを得なかっただけです」
玲華は湊の反対側に座り、無造作に脚を組んだ。
仕事中の鋭利なスーツ姿とは一変し、シルクのネグリジェにガウンを羽織っただけの彼女は、驚くほど艶やかで、幼い少女のような危うさを同居させている。
「……湊、少しこちらを向きなさい」
「なんだ?」
「目が、まだ充血していますわ。……全く、あなたという人は、自分という資本を使い潰すことしか考えないのですから」
玲華は湊の頬に冷たい手を添え、至近距離で彼の瞳を覗き込んだ。
普段の冷徹なアナリストとしての顔が、湊にだけ見せる、ひどく熱を持った女の顔へと溶けていく。
「湊くん! また玲華ちゃん、ズルいんだから!」
そこへ、パタパタと慌ただしいスリッパの音と共に陽葵が飛び込んできた。
彼女は湊の膝の上に、遠慮もなしに飛び乗るようにして座り込んだ。
「湊くん、お疲れ様! 陽葵も、今の配信の数字まとめてきたよ! ……って、あれ? 二人ともズルい! 陽葵も湊くんにくっつきたい!」
「陽葵、重いぞ……」
「えーっ! 軽いもん! 湊くんのために、毎日たくさん歩いてるんだよ?」
陽葵の弾けるような笑顔と、その小さな体から発せられる純粋なエネルギー。
湊を挟んで、癒やしの紬、知性の玲華、そして希望の陽葵。
多妻婚法という制度がもたらしたこの歪な、しかし強固な「家庭」は、今や湊にとって、世界を敵に回してでも守り抜くべき唯一の聖域となっていた。
「……皆、わかった。今日はもう、ここまでにしよう」
湊はホログラムのウィンドウをすべて閉じ、深く椅子に身を預けた。
三人の少女たちの視線が、一斉に彼に注がれる。それは部下としての尊敬ではなく、一人の夫を求める、熱く、切実な恋慕の色だった。
「湊くん。……お布団、もう敷いてあるから」
紬が耳元で、火照るような声で囁く。
「……今夜は、特区の今後について、私とも『深い』議論を重ねていただきますわよ。……逃がしませんから」
玲華が、普段の彼女からは想像もつかないほど大胆に湊の耳たぶを甘噛みした。
「陽葵も! 陽葵も湊くんの隣がいい! 朝まで離さないんだから!」
陽葵が湊の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
外の世界では「処刑人」と恐れられ、冷徹な経営者として振る舞う湊だが、この部屋の、この空気の中では、彼女たちの愛に翻弄されるただの少年だった。
「……ああ、わかったよ。今夜は、じっくり付き合うとしよう」
湊は、自分を支える三人の「妻」たちを順番に見つめた。
多妻婚法は、確かに生存戦略のための冷酷なシステムかもしれない。だが、そこに魂を吹き込み、本当の絆を育むのは、数字でも契約でもない。
暗い九条屋の奥、主の間の明かりが静かに消える。
明日にはまた、世界を震撼させるための過酷な戦いが始まる。
だからこそ、この刹那の夜だけは、彼らはただの男と女として、互いの体温を、魂を、深く確かめ合う必要があった。
闇の中で交わされる、静かな吐息と、微かな衣擦れの音。それは、沈みゆく日本を救い出す、最強の戦士たちに許された、唯一の、そして最高の休息だった。




