第11章:静寂の略奪と、処刑人の微笑
レヴィアタン・タワー百階、天空を衝く不夜城の頂上は、今や冷たく重い静寂に支配されていた。
空調が止まり、数分前まで会場を満たしていた最高級の葉巻と香水の香りが、湿った人間の汗の匂いへと変質していく。窓の外を見れば、かつては宝石を散りばめたようだった租借地の夜景が、まるで生命活動を停止した巨大な獣の死骸のように暗転していた。
非常用ライトの淡い赤光が、高級スーツに身を包んだ投資家たちの狼狽した顔を不気味に照らし出す。
「……九条、湊……。貴様、自分が何をしたか分かっているのか!」
権藤幹事長が、血管が浮き出た拳で演台を叩いた。その声は怒りに震えているというよりも、足元から崩れ落ちていく権力の砂山を必死に繋ぎ止めようとする、惨めな悲鳴に近かった。
「分かっていますよ、権藤さん。私はただ、市場原理に従って『適正価格』での取引を提案しているだけです」
モニターの中の俺は、冷徹な響きを帯びた声で答えた。
視界の端では、経営眼が猛烈な勢いで周囲の情報を処理し続けている。会場にいる一人ひとりの負債状況、隠し口座の所在、そして今この瞬間に彼らが感じている「恐怖」の時価評価額。それらすべてが、黄金色の数式となって俺の脳内を駆け巡る。
「対象:権藤幹事長」
「資産価値:マイナス八百六十億円(政治基盤の崩壊による)」
「精神状態:パニックによる思考停止」
「解決策:完全なる排除」
脳を焼くような熱い痛みが走る。俺の隣で端末を操作していた玲華が、鋭い視線をモニターに向けたまま、静かに口を開いた。
「湊、タワー周囲の警備ドローン、および租借地警察の通信網の制圧を完了しましたわ。……彼らは今、自分たちの給与が、日本円でもドルでもなく、価値の保証されない電子クズに変わったことを知りました。彼らが守るべき『主』は、もはやここにはいません」
「ご苦労、玲華。完璧な仕事だ」
「当然ですわ。……ですが湊、あなたのバイタルが危険域に入っています。これ以上の並列処理は、あなたの未熟な脳細胞を物理的に破壊しかねません」
玲華の言葉には、アナリストとしての客観的な警告と、一人のパートナーとしての微かな危惧が混ざり合っていた。
「……あと少しだ。ここでトドメを刺さなければ、日本はまた眠りにつく」
俺は痛みを無視し、再び画面越しに投資家たちを見据えた。
「皆さんに教えましょう。なぜ、皆さんが所有していたはずのこの土地が、一瞬で私の支配下に落ちたのか。……それは、皆さんがこの国の『心』を買い叩こうとしたからです。メンテナンスを行う技術者、食事を作る料理人、夜の街を清掃する人々。彼らは皆、あなたたちの傲慢な数字に殺されかけていた。私は彼らに、正当な『誇り』を対価として支払った。それだけの話です」
「誇りだと……? そんなもので腹が膨れるか!」
投資家の一人が叫ぶ。だが、その声は空虚に響くだけだった。
「いいえ。誇りがあるからこそ、人は最高の仕事を成し遂げる。そして最高の仕事こそが、世界で最も高い利益を生む。……皆さんが信奉する合理主義の、それが真理でしょう?」
俺は一呼吸置き、最後通牒を突きつけた。
「今から一時間以内に、全租借権の委譲契約に電子署名を行いなさい。さもなければ、このタワーの全システムを完全ロックし、皆さんの個人資産を国際指名手配犯のリストに連結します。……これは、コンサルタントとしての最後のアドバイスです。命より重い数字など、この世には存在しませんよ」
モニターが消えた。
九条屋の地下指令室に、しん、とした静寂が戻る。
「……湊くん!」
背後から紬が駆け寄り、俺の体を後ろから支えた。
限界まで研ぎ澄まされていた神経が、彼女の温もりと、微かに漂う出汁の香りに触れた瞬間、一気に弛緩していく。
「……紬、か。悪い、少し目が回る」
「もう、無茶ばっかり。玲華ちゃんも陽葵ちゃんも、みんな湊くんのこと心配してるんだから」
紬の手が、熱を持った俺の額を優しく包む。
不思議なことに、彼女が触れている場所から、脳を焼いていた熱が霧散していく。経営眼という呪いのような能力に対する唯一の特効薬。それは、この世界における「無償の愛」という名の、計算不可能なエネルギーだった。
「湊くん、見て。陽葵ちゃんの配信、すごいことになってるよ」
陽葵が自分のスマートフォンを掲げて、弾んだ声で言った。
画面の中では、租借地で働いていた日本人たちが、街角で手を取り合い、涙を流しながら「自分たちの国」が戻ってくる予感に震えている様子がライブで流れていた。
「……これが、僕たちが欲しかった景色なのかな」
「そうだよ、湊くん。湊くんが数字で守ってくれた場所に、私が声を届けた。……みんな、待ってたんだよ。誰かが『日本はまだ終わってない』って、本気で言ってくれるのを」
陽葵の瞳には、かつての故郷を追われた悲しみではなく、未来への強い希望が宿っていた。
癒やしの紬。知性の玲華。そして、希望の陽葵。
この三人の少女たちが、俺という不安定な家長を支え、一つの強力な「家」という名の国家を形作っている。
だが、安堵するのはまだ早い。
レヴィアタン・タワーでの騒動は、あくまでも「北関東の一地方」を取り戻したに過ぎない。GDP世界1位への道は、まだ数千マイルの距離がある。
「湊、休んでいる暇はありませんわよ」
玲華が冷徹な、しかしどこか満足げな笑みを浮かべてタブレットを叩く。
「権藤の背後にいる民政党本部が、自衛隊の動員すら示唆する強硬姿勢を見せ始めました。……どうやら彼らは、自分たちの負けを認めるよりも、この国を道連れにして心中する道を選びたいようですわね」
「……上等だ。国を愛さない連中に、国防を語る資格はない」
俺は紬に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
窓の向こう、夜明け前の空が、深い群青色から次第に薄明るく染まり始めている。
「紬、今日の朝飯は、とびきり精のつくやつを頼む。……これからは、旅館の再建じゃない。本格的な『日本買収』の始まりだ」
九条湊の瞳には、黄金色の数字が再び静かに灯り始めた。その光は、沈みきったこの国に、新たな夜明けをもたらす道標となる。




