第10章:不夜城の包囲網と、心の関税
陽葵が加わったことで、九条屋の戦略は「守備」から「侵食」へと転換した。
彼女が持つSNSの拡散力と、租借地の労働者層に深く根ざしたネットワーク。それは、外資の鉄壁なセキュリティを内側から食い破る、目に見えない蟻の一群のようなものだった。
湊は、九条屋の地下にあるかつての貯蔵庫を改造し、玲華が構築した高度な情報解析センターへと変貌させていた。
「湊、租借地内の日本人の動向に変化がありましたわ。……彼らはもはや、外貨で支払われる賃金ではなく、九条屋が発行する独自のポイント、通称『エモーション・チップ』での報酬を求め始めています」
玲華がモニターを指し示す。そこには、法定通貨を介さない、新しい経済圏の胎動が記されていた。
「エモーション・チップ……。九条屋で紬の料理を食べたり、温泉に入ったりするための優先権利、だね?」
陽葵が補足する。彼女は毎日、租借地の労働者たちに向けて、九条屋の「安らぎ」を動画で配信し続けていた。
「そうだよ。みんな、カジノで稼いだドルじゃ、もう心が満たされないんだ。それよりも、湊くんたちが作ってくれる、人間らしい場所で過ごす一時間の方が、価値があるって気づき始めたんだよ」
これこそが、湊が提唱する「心の関税」だった。
外資がどれほど資本を投下しようとも、日本人が本来持つ情緒的な価値に高い障壁を設ければ、通貨の価値は逆転する。
「いい傾向だ。だが、これを快く思わない連中が、いよいよ強硬手段に出るぞ。……玲華、サミットの会場となる『レヴィアタン・タワー』の警備プランを解析しろ。俺たちはそこへ、正攻法ではなく『経営権の割譲』という名の爆弾を放り込む」
一週間後。租借地の象徴である地上百階建ての「レヴィアタン・タワー」にて、合同サミットが開催された。参加者は、日本を切り刻む大国の代表者たちと、彼らに追従する権藤幹事長ら売国政治家たちだ。
煌びやかなシャンデリアの下、権藤が乾杯の音頭を取ろうとしたその時。会場の全モニターが、一瞬で九条屋のライブ映像に切り替わった。
「な、なんだ!? 放送事故か!」
権藤が叫ぶ。モニターに映し出されたのは、優雅に茶を嗜む十六歳の少年――九条湊の姿だった。
「世界各国の投資家の皆さん、こんばんは。……本日、私は皆さんに一つの『経営報告』をさせていただきます」
湊の声は、スピーカーを通じて会場全体に響き渡った。
「現在、皆さんが運営している租借地内の全インフラおよび、基幹システムのメンテナンスを担っている日本人技術者の九割。……彼らは本日付で、我が『九条グループ』の社員となりました。そして、彼らは一斉に有給休暇を取得しました」
会場にどよめきが走る。同時に、タワーの照明が落ち、冷房が止まった。非常用の電源すらも、湊が握っているシステムによってシャットダウンされる。
「ふざけるな! これはテロだぞ!」
一人の大国代表が激昂する。だが、湊は動じない。
「いいえ、正当な労働権の行使です。……それとも、皆さんは自国の言語すら通じない、この国の情緒を理解しないロボットだけで、この巨大な資産を維持できるとお考えですか? 今、この瞬間から、この租借地は『機能不全のただの箱』に変わりました」
湊の背後には、完璧な財務諸表を抱えた玲華、労働者の支持を束ねる陽葵、そして、ハンス・ルードリッヒから託された「外部委託契約の解除通知」が並んでいた。
「提案は一つ。この租借地の経営権を、我々『水ノ守経済特区』へ一円で譲渡しなさい。その代わり、皆さんの資産価値がゼロにならないよう、私が再建して差し上げます」
十六歳の少年による、世界最強の国家たちへの買収通告。
暗闇の中で、権藤や投資家たちは、自分たちが踏みつけにしてきた「沈みゆく日本」という名の巨人が、一人の少年の頭脳を介して、再びその目を見開いたことを知った。
経営眼が、会場内の混乱を黄金色の利益確定へと変換していく。
湊の脳は猛烈な熱を発していたが、その隣では、紬が用意した冷たい水と、彼女の確かな祈りが、彼の戦いを支えていた。
「さあ、審判の時だ。日本を買い戻す、本当の商談を始めよう」




