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第13章:崩壊する予算、そして「円」の黄昏

 静謐な朝の空気が、鋭利な刃物のような緊張感に切り裂かれた。

 北関東の山あいに位置する「水ノ守経済特区」。その入り口となる国道には、夜明けと共に数十台の黒塗りの車両と、大型の装甲輸送車が列をなしていた。車体に刻まれているのは、政府直轄の特殊治安維持部隊の紋章だ。


 九条屋の地下指令室。冷たい電子音だけが響く空間で、湊は無数のモニターを見据えていた。

 画面には、サーマルカメラが捉えた重武装の隊員たちの姿が映し出されている。権藤幹事長ら「売国奴」たちが、ついに法と秩序という名の皮を脱ぎ捨て、剥き出しの暴力を振るい始めたのだ。


「……湊。特区への電力供給および通信回線、政府によって物理的な遮断工作が始まりましたわ。彼ら、本気でここを更地にするつもりですわね」


 隣に立つ玲華が、キーボードを叩く指を止めることなく告げた。

 彼女の瞳には、かつて外資系ファンドで数字だけを信じていた頃の冷徹さと、今の自分の「居場所」を守ろうとする強い意志が混在している。


「構わない。むしろ、彼らが手出しをしてくるのを待っていた。玲華、準備していた『経済的地雷』を起動しろ」


「承知いたしましたわ。……日本国政府、令和八年度・補正予算執行システムへの強制介入。……完了しましたわ」


 湊は静かに目を閉じた。

 経営眼ビズ・アイが、網膜の裏側に巨大な黄金色のピラミッドを描き出す。それは、この国の「国家予算」という名の、崩れゆく巨大な帳簿だった。


「対象:日本国政府・財務健全性」

「現状:実質的債務超過テクニカル・デフォルト

「脆弱性:公務員給与および自衛隊維持費の支払い原資、

  九条グループが買収した『外資系ファンドA』の債権に依存」


 俺は薄く笑った。

 権藤たちは知らない。自分たちが国民から吸い上げ、租借地の利権として外資に横流ししていた金が、巡り巡って俺の手元に「日本を差し押さえるための権利」として集約されていることを。


「湊くん! 特区のゲート前、大変だよ!」


 陽葵がモニターを指差して叫ぶ。

 そこには、武装した隊員たちの前に立ち塞がる、数百人の地元住民と租借地からの労働者たちの姿があった。彼らは武器を持っていない。ただ、陽葵が配信し続けてきた「九条屋の日常」という名の希望を信じ、自分たちの手でこの聖域を守ろうとしていた。


「皆、どいてくれ! これは国家の命令だ!」


 拡声器を通した隊長の怒声が響く。だが、一人の老人が叫び返した。


「国家の命令だと? 俺たちの年金をカットして、土地を外資に売り飛ばしたお前らのどこに、従う理由がある! 俺たちを守ってくれるのは、九条の若旦那だけだ!」


 その光景を視界の端で捉えながら、湊は通信回路を開いた。

 ターゲットは、今まさにゲートを突破しようとしている部隊の全隊員が持つ、個人端末だ。


「――特殊治安維持部隊の諸君。朝早くからご苦労様」


 湊の声が、全隊員のイヤホンに直接響き渡る。


「君たちがこれから行おうとしている行為は、法的には『治安維持』かもしれない。だが、経済的には『完全なる自殺』だ。……今、君たちの銀行口座を確認してみるといい。たった今、君たちの今月の給与、そして将来の退職金積立金は、日本政府から『九条特区銀行』へと債権譲渡された」


 隊員たちの動きが、目に見えて止まった。彼らが慌てて自分の端末を操作し始める。


「な、なんだこれは……。残高が、政府発行の円じゃなくて……『九条ポイント』に書き換わっている!?」


「その通り。今の日本円には、もはやパン一斤を買う価値もない。だが、そのポイントは、この特区内で最高級の医療を受け、紬の作る最高の食事を食べ、君たちの家族を租借地の奴隷労働から解放するための通行証になる。……さあ、選べ。沈みゆく泥舟の命令に従って俺を撃つか。それとも、新しい日本の『株主』として、その銃を下ろすか」


 圧倒的な経済的沈黙。銃を構えていた隊員たちの指から、力が抜けていく。

 彼らもまた、この国を愛しながら、この国に裏切られ続けてきた「被害者」の一人だったのだ。


「……湊くん、すごい。みんな、銃を下ろしてる」


 紬が、祈るように組んでいた手を解き、湊の腕にそっと触れた。

 彼女の指先から伝わる安らぎが、脳を焼き尽くそうとしていた「経営眼」の負荷を霧散させていく。


「まだ終わっていないよ、紬。……玲華、陽葵。次は永田町だ。権藤が隠し持っている『最後の切り札』……他国への核持ち込みを容認した裏条約のデータを、全世界にブロードキャストしろ」


「了解しましたわ。……この国の『嘘』の帳簿、すべて清算して差し上げます」


 玲華のキーボードを叩く音が、処刑のカウントダウンのように響く。

 

「陽葵も準備万端だよ! 日本中の、ううん、世界中の人たちに、今この瞬間から新しい日本が始まるって、最高の笑顔で伝えてあげる!」


 十六歳の九条湊は、地下室の冷たい椅子から立ち上がった。

 窓のない地下室だが、彼の瞳には、この絶望的な国の果てに昇る、黄金色の夜明けがはっきりと映っていた。


 GDP67位。

 その数字が、今日、一人の少年と三人の少女の手によって、歴史の闇へと葬り去られようとしていた。

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