第四十四話(前編):ボロ宿に入ったら普通じゃなかった件
この町「イグラ」は、ただの中継地点ではありません。
通過するための場所でありながら、足を止めさせるための構造をしています。
何が正しくて、何が間違いか。
このあたりから、少しずつ判断が鈍るように書いています。
よろしくお願いします。
扉を開けた途端、蓄えていたわずかな体温が、容赦のない夜気にさらわれる。
宿の熱気が遠ざかる背中とは裏腹に、正面からは針のような風が容赦なく吹き抜けていく。防寒具などない肌に直接、イグラの冷気が突き刺さる。その鋭い痛みが、桃太郎の思考を強制的に冴えさせた。
「……行くぞ」
その短く吐き出した吐息すら、一瞬で白い霧となって夜に溶けていく。
桃太郎は短く息を吐いた。
「……部屋、取るぞ」
それだけ言って、カウンターに金を置く。
男は何も言わず、鍵を一つだけ差し出した。鉄ではなく、やけに重い木の鍵だった。氷の温度を吸い込んだような、掌が少し痺れる重さだ。
白雪がそれを覗き込む。
「木なのだ?」
「この町じゃ普通だよ」
オババは興味なさそうに肩をすくめた。
三人は階段を上がる。
踏み板は一歩ごとに、低く呻くような音を立てた。底の薄い靴越しに、床板の凍りついた冷気が伝わってくる。
ぎし、ぎし、と。
桃太郎は無意識に視線を落とす。
「……建物が喋る、か」
誰に向けたでもない独り言だった。
白雪が後ろからついてくる。
「今、しゃべったのだ?」
「違う。材質劣化だ」
「むずかしいのだ」
オババは笑わない。
ただ、廊下の壁を指で軽く叩いた。こん、という乾いた音。それが一瞬だけ、壁の奥で何かを弾くように、遅れてもう一度返ってきた。こん。
桃太郎の足が止まる。反響とは違う、質量を伴った反応。
「……反響じゃないな」
オババは答えない。
鍵を受け取った扉の前に立つ。
「まあいいさね。入ればわかる」
ぎい、と扉が開く。
中は思ったより普通だった。狭いが、最低限の家具。ベッドが二つ。小さな机。
ただひとつだけ違うのは――窓の外が、やけに“近い”ことだった。
まるで壁のすぐ向こうに、奥行きを欠いた別の空間がぺたりと貼り付いているような距離感。
白雪がぽつりと言う。
「外、近いのだ」
桃太郎は窓を見て、少しだけ黙る。
「……距離の問題じゃないな」
オババが部屋の隅に荷物を投げる。
「で、どうするんだい。休むか、それとも“喋る建物”の話でも探りに行くか」
桃太郎は一拍置いてから答えた。
「まずは整理だ。情報が多すぎる」
白雪が首をかしげる。
「整理、なのだ?」
桃太郎は頷く。
「この町は“情報が集まる構造”になってる。偶然じゃない」
オババが初めて、少しだけ口角を上げた。
「ようやく気づいたかい」
その瞬間、部屋の壁が――かすかに、鳴った。
ぎ、……と。
壁が、もう一度だけ鳴った。建材の収縮音ではない。
何かが呼吸を止めた瞬間に漏れた音だった。
その音に、白雪は小さく肩を震わせる。気づけば――桃太郎の袖を、そっと掴んでいた。離さない。
桃太郎は一瞬だけその手を見る。
「……なんだ」
「……なんでもないのだ」
白雪は視線を逸らしたまま、それでも指は緩めない。
オババがその様子を見て、鼻で笑う。
「随分と懐かれたもんだねぇ」
桃太郎は短く息を吐く。
「……合理性の問題だろ。落ち着く対象が近くにあるだけだ」
「なのだ」
白雪は小さく付け足す。だが、その声は少しだけ震えていた。
壁は、もう鳴らない。
代わりに、どこか遠くで――何かが軋む音がした。
白雪が、ふと動きを止めた。
「……お腹すいたのだ」
次の瞬間、小さく。
ぐぅ。
部屋の静けさに、あまりに人間味のある音が落ちる。白雪は一瞬固まり、耳まで赤くする。
「……今のは違うのだ」
オババが鼻で笑う。
「何が違うんだい」
桃太郎は一拍だけ黙ってから、ため息をついた。
「……論理的には、行動優先順位が上がったな」
「お腹の話なのだ」
白雪は真剣だ。
そのやり取りの中で、さっきまで張りつめていた“壁の気配”が、少しだけ薄れる。
桃太郎は窓の外を一度見てから言った。
「……下に食堂があるはずだ。情報収集も兼ねる」
オババが肩をすくめる。
「ようやく人間らしい判断だねぇ」
白雪は、まだ袖を少しだけ掴んだまま頷いた。
「ごはんなのだ」
桃太郎は周囲を見渡す。食堂のざわめき。笑い声、食器の音、湯気の匂い。そのすべてが、この異様な町にあっては不自然なほど“現実的”に響いている。
「……人も結構居るな」
それだけ言って、空いている席へ視線を移す。
白雪はきょとんとしたまま、小さく呟いた。
「裏のグリモワールドに来て、初めてなのだ。こんなに大勢の人」
桃太郎は答えない。ただ、席の方へ歩き出す。
席に着いて間もなく、店員が来た。無駄のない動きで、三人を一瞥する。
「注文は」
それだけだった。
桃太郎はメニューらしき板を一度見て、すぐに閉じる。
「温かいものを三つ。それと水」
店員は短く頷く。
「肉か、豆か」
「……消化にいい方」
「豆だな」
それで決まった。
白雪が小さく身を乗り出す。
「おいしいのだ?」
店員は一瞬だけ視線を向ける。
「腹は満たされる」
それだけ言って、去っていった。
オババが鼻で笑う。
「愛想はないが、嘘もなさそうだねぇ」
桃太郎は周囲を見ながら呟く。
「……合理的だな」
しばらくして、湯気の立つ器が運ばれてくる。
豆を煮込んだ濃いスープに、固いパン。見た目は質素だが、熱だけはしっかりとある。
白雪はスプーンを握って、少しだけ迷う。そして一口。
「……あったかいのだ」
その一言で、張り詰めていた空気がほんの少し緩む。
桃太郎も一口だけ口に運ぶ。
味は単純だが、冷えた体に熱が落ちる。
「……悪くない」
そのとき、近くの席から声が漏れた。
「……母親の病気、それ北の薬じゃねぇと無理だろ」
「分かってるよ……」
それだけだった。
桃太郎は特に反応せず、スプーンを動かし続ける。だが、スープの味など判別できないほど、聴覚は鋭敏になっていた。
さらに別の席から、短い声。
「地下はやめとけって言ったろ」
小さく、しかしはっきりと。
桃太郎の手が、わずかに止まる。
白雪は気づかずにスープを口に運んでいる。
「おいしいのだ」
オババは何も言わない。ただ、耳だけが周囲に向いていた。
「だから言っただろ、地下はやめとけって」
「でも地上ルート、いつ開くかわかんねぇんだぞ」
「それでもだ。戻ってきたやつ見たことあるか?」
一瞬、間が空く。食器の音だけが残る。
「……ねぇな」
桃太郎はスプーンを置かずに、そのまま口を開く。
「確率が低い、か」
白雪が顔を上げる。
「なにがなのだ?」
「選択肢の話だ」
それだけ言って、またスープに視線を落とす。
オババが小さく笑う。
「珍しく素直に聞いてるじゃないか」
桃太郎は答えない。だが、耳は完全に会話の方に向いていた。
「じゃあどうするよ、このまま待つのか?」
「待つしかねぇだろ。装備もねぇのに潜る気かよ」
「……イグラで揃うのか?」
「ああ。金さえあればな」
その一言で、話は終わった。
桃太郎はゆっくりとスプーンを置く。
「……整理する」
白雪が首をかしげる。
「整理なのだ?」
桃太郎は短く頷く。
「地上は不確定。地下は高リスク。だが――」
一拍。
「装備で生存率は変わる」
オババが肩をすくめる。
「ようやく“進む前提”で考え始めたねぇ」
白雪はまだよくわかっていない顔で、パンをちぎる。
「どっちに行くのだ?」
桃太郎は答えない。ただ、器の中の湯気を見つめ、思考を回す。
その向こうで、誰かがぼそりと呟く。
「……今日も一組、潜ったらしいぞ」
その言葉だけが、静かに残った。
桃太郎は立ち上がる。
「……確認する」
オババが眉を上げる。
「どっちをだい」
「地上ルートだ」
白雪が顔を上げる。
「行けるのだ?」
桃太郎は首を振る。
「行けるかどうかを、確認する」
表に出ると
氷の奥で、微かな振動が伝わってきた。
硬質なはずのそれが、彼の手の熱を吸い込むように、わずかに鼓動している。
偶然の気象現象か。あるいは――。
門の向こうから、何かがこちらを伺っているような気配が、凍りついた空気を震わせた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回の話は、「安全そうに見える場所が一番不安定かもしれない」という感覚を軸にしています。
外は明確に危険で、中は一見すると普通。
ですが、その“普通”がどこまで信用できるのかは、まだはっきりしません。
イグラは情報が集まる町です。
そして同時に、選択を迫る町でもあります。
地上か、地下か。
進むのか、待つのか。
あまり猶予は長くないかもしれません。
次も、もう少しだけ進みます。




