第四十話(中編③):スローライフを諦めて、北の難所に踏み出した件
桃太郎はこれまで、演算と判断で生き延びてきたキャラクターですが、そんな彼にとって最も相性の悪い存在――「どうやっても逃げ切れないもの」を描いてみたくて、このシーンを書いています。
白い靄という存在は、単なる敵というよりも、“理屈の通じない脅威”の象徴です。速さも、広がり方も、そして触れたものが「消える」という性質も含めて、「対策を考える前に終わる」状況を意識しています。
その中で、桃太郎が最後に何を思うのか。
積み重ねてきた理屈か、それとももっと原始的な感情か。
ここから先、彼の選択と剣の反応が物語の方向を大きく動かしていきます。
少しでもこの緊張感や息苦しさを楽しんでもらえたら嬉しいです。
背後では、白い靄が音もなく迫っていた。
距離は、確実に縮まっている。
「このままじゃ全員やられる!」
オババの声が鋭く響いた。
「追い方が一直線じゃない……囲まれるよ! 三手に分かれるよ!!」
「えっ!?」
白雪が驚愕して振り返る。
「散れば、あれも一度に全部は追えない! ターゲットを分散させるんだ!」
桃太郎の演算脳が、即座に計算を走らせる。
(確率分散……生存率を上げるには最も合理的な判断だ。……でも、待てよ)
一瞬の沈黙。桃太郎の顔が、嫌な予感にゆっくりと歪む。
「おいおい……」
全力で足を動かしながら、乾いた声が漏れる。
「もしかしてこれって……また俺が、一番危険な『囮』になる流れか!?」
「違うのだ!!」
白雪が即座に否定する。
「順番に決まってるだろ!!」
「その『順番』ってなんだよ! 誰が決めたんだよ!!」
叫ぶ間にも、**サァァァ……**と背後の白い靄が大きく揺れた。まるで、どの獲物を最初に仕留めるか“選別”しているかのように、不気味に蠢く。
マギ・オババの目が、わずかに細くなった。
「……いいかい、合図で散るよ。振り返るな。止まるな。……絶対に捕まるんじゃないよ」
「そんな簡単に言うなッ!!」
桃太郎の叫びと呼応するように、腰の剣が激しく脈打つ。
ドクン、ドクン、ドクン――
「――今だ!!」
オババの号令と同時に、三人は弾けるように散った。
白雪は左の急斜面へ、オババはその逆、視界の悪い木々の密集ルートへ。
そして――。
「うおおおおおおっ!!!」
桃太郎は、なぜか一番“逃げ場のない、開けた方向”へ走らされていた。
「なんで俺だけ遮蔽物が少ねぇんだよ!! おかしいだろこの地形配分!!」
背後で、**サァ……**と一瞬の静止。
そして、白い靄は迷いなく動いた。他の二人には目もくれず、一直線に、貪欲に。
「やっぱり俺じゃねぇかぁぁぁぁ!!!」
愛剣が爆発するように脈打つ。
ドクンッ!!
「くそっ……来るなって言ってんだろ! 俺は美味くないぞ!!」
桃太郎は歯を食いしばり、肺が焼けるような呼吸で泥を蹴る。枝を払い、岩を飛び越え、全力で駆ける。
だが
――速い。
“それ”は重力も空気抵抗も無視し、逃げるという概念そのものを嘲笑うかのような速度で距離を詰めてくる。背中に張り付くような冷気が、桃太郎の体温を奪っていく。
(演算終了……。この速度差では、あと十秒持たない。終わる――)
死の数値が脳裏をよぎった、その瞬間。
「右だ!!」
森の奥から、オババの鋭い声が飛んだ。
桃太郎は反射的に身体を捻る。
直後、ザァッ!! という音が空気を切り裂いた。さっきまで桃太郎の胴体があった空間を、白い靄が力ずくで削り取る。
「……っ!!」
桃太郎の目が見開かれる。
「冗談だろ……!」
靄が触れた場所の草木が、枯れるのではなく“消えて”いた。存在そのものを喰らわれたような光景に、本能が絶叫する。
逃げろ。ただ、それだけを。
桃太郎は、ひたすらに走り続けた。枝が顔を打ち、足元の石が跳ねて膝を打つ。それでも止まらない。止まれば、消される。
背後。
サァァァ……
“それ”は、逃げ道を塞ぐように左右へと広がりながら、着実に獲物を追い詰めていた。
「くそっ……チート性能すぎるだろ……!」
荒れる息。鉛のように重くなる足。限界を告げる演算脳。
桃太郎の視界の先、崖っぷちの細い道が、唯一の希望のように見えていた。
“それ”は、確実に距離を詰めていた。
逃げるという行為そのものが無意味に思えるほど、絶対的な速度差。
「くそっ……速すぎるだろ……!」
肺が焼け、喉が血の味を覚える。
足はすでに鉛のように重く、一歩を踏み出すごとに膝が笑っていた。
だが――。
ドクンッ!!
腰の剣が、これまでで最も強く脈打った。
(分かってるっての!! 来てるんだろ、すぐ後ろに!!)
桃太郎は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばり、最後の力を振り絞って急斜面を蹴り上げた。
その瞬間。
ズルッ――
「っ!?」
湿った土が、無情にも桃太郎の足を裏切った。
体勢が崩れる。重力に抗う術はなく、前のめりに倒れ込み、硬い地面に叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から全ての空気が強制的に押し出される。
視界が火花を散らし、一瞬意識が遠のく。
這いつくばったまま、泥を掴んで立ち上がろうとする。
だが――。
遅い。
サァ……
すぐ後ろ。
“いる”。
氷の刃を突き立てられたような冷気が、剥き出しの首筋に触れた。
桃太郎の動きが、凍りついたように止まった。
(……ああ)
演算脳が、感情を排した無機質なトーンで静かに結論を出す。
――回避不可。
――防御手段、皆無。
――生存確率、ゼロ。
(終わったな)
思考は、驚くほど冷静だった。
これまでの人生――前世の浪人時代も含め、常に「正解」をこじ開けてきた努力と計算。
それが今、明確な「死」という答えに収束していく。
蒸したての芋の匂い。
肌を刺すような温泉の熱さ。
そんな、どうでもいいはずの記憶が走馬灯のように一瞬で脳裏をよぎる。
(せっかく、いい感じの村を見つけたのにな……)
死の淵で、桃太郎はゆっくりと目を閉じた。
背後で、白い靄がその大きな口を開くような、不気味な揺らぎを感じる。
(死にたくねぇ、隠居暮らしするんだ!)
その時。
ピタリと止まっていたはずの愛剣が、爆発的な熱量を帯びて叫びを上げた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回はとにかく「逃げ場のない状況」を全力で描いてみました。書いている側としても、桃太郎をどこまで追い詰められるか、正直ちょっと楽しくなってしまった回です。
それにしても、あの白い靄。
あれはもう、敵というより災害に近い存在ですね。理屈も作戦も通じないものに対して、人はどう抗うのか――というのは、この先もひとつのテーマになっていきそうです。
そして、最後にようやく動いた“剣”。
ここまでやたら脈打っていたわけですが、ようやく本領(?)を見せてくれそうです。桃太郎にとって切り札になるのか、それとも――というところは、次回をお楽しみに。
少しでもハラハラしていただけたなら嬉しいです。
それでは、また次の話で。




