第四十八話(後編①):ラスボスが世界と融合して無敵だった
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は「世界そのものが敵になる絶望」を意識して書きました。
勝率が限りなくゼロでも、それでも前へ出る桃太郎を書けたらと思っています。
少しでも、この圧迫感や緊張感を楽しんでもらえたら嬉しいです。
黒い肉壁が、脈打っていた。
ドクン、ドクンと、空間そのものが心臓のように収縮を繰り返している。
湿り気を帯びた壁も、粘つく床も、高くそびえる天井も、もはや無機質な建造物ではない。
そこにあるのは、無数の湿った肉塊が幾重にも絡み合い、血管のような黒い蔓を四方八方へと巡らせながら、巨大な“一つの生物”として不気味に呼吸を続ける異形の間であった。
その中心。
禍々しい石盤の前に、一人の男が座している。
玉座のように隆起した肉塊に腰掛け、その背後からは無数の蔓が、まるで神経を接続するように彼の身体へと直接食い込んでいた。
石盤の奥底から溢れ出す青白い光が、男の輪郭をなぞり、脈動が走るたびに巨大な影を醜く歪ませている。
セレナの喉が、音もなく詰まった。
「……アッシュ」
震える唇からその名が漏れた瞬間、忌まわしい過去が濁流となって脳内を駆け巡る。
燃え上がる家。
絶望に叫ぶ家族の声。
冷たく響く鎖の音。
自由を奪われた硬い床。
鼻腔に焼き付いて離れない、あの焦げた匂い。
逃げ出したくても逃げられなかった記憶が、現実の酸素さえも奪い去り、彼女の呼吸を浅く追い詰めていく。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「生きていたか」
感情を排した、静かな声。
それだけで、セレナの指先は制御を失ったかのように激しく震えた。
これは本能に刻まれた原初の恐怖だ。
細胞の一つ一つが、かつての敗北と無力さを覚えている。
逆らうな。
近づくな。
お前では、決して勝てない。
その絶望の壁を割るように、桃太郎が一歩前へ出た。
その瞬間――
空間の密度が、一気に沈んだ。
「……っ!」
桃太郎の視界が、ぐにゃりと歪む。
脳内に展開された数理の網『プロマッピング』が、外部からの干渉を受け、一斉に強制的な“書き換え”を受けていた。
(違う。思考を読まれているんじゃない。存在の定義そのものを“上書き”されているんだ)
コンマ数秒の直感に従い、桃太郎は横へ跳んだ。
その直後、先ほどまで彼の頭部があった空間を、巨大な黒い杭が無音のまま貫く。
刹那の遅れ。
空気を引き裂く轟音が、爆ぜるように周囲を揺らした。
ゴバァッ!!
杭に穿たれた肉壁が派手に裂け、中からどろりとした内容物が溢れ出すが、すぐさま驚異的な速度で再生が始まる。その修復速度は、もはや生物の理を逸脱していた。
「桃太郎!」
セレナの悲鳴に近い叫び。
しかし、桃太郎は応えない。いや、言葉を返す余裕すら奪われていた。
数式が崩れていく。
精緻に組み上げた術式構築が、指の間から砂が零れるように、途中で別の不条理な結果へとすり替えられてしまう。
これは未来予測や回避計算の失敗ではない。
これこそが――“演算汚染”。
「ようやく気付いたか」
アッシュの唇が、嘲るようにわずかに弧を描いた。
「ここは俺の思考領域だ。俺の思考が、この世界の物理法則そのものとなる」
ドクン。
呼応するように石盤が脈動し、空間全体がアッシュの肺であるかのように呼吸を強める。
桃太郎の視線が石盤へと吸い寄せられた瞬間、最悪の理解が脳に落ちた。
「……繋がっている」
目に見える建物、脈打つ肉壁、這い回る蔓。
再生される細胞、こちらを学習し続ける領域の知性。
そのすべてが、単なる石盤の機能ではない。
石盤のさらに奥。
システムの中枢そのものが、アッシュという個の存在へと直結しているのだ。
桃太郎の背中を、嫌な汗が冷たく伝う。
脳内で『プロマッピング』が冷酷な結果を弾き出した。
接続遮断成功率――2.7%。
石盤破壊時――世界崩壊確率、算出不能。
(……詰みか)
これまで数多の絶望を論理でねじ伏せてきた彼の脳裏に、初めて“敗北”という二文字がよぎりかける。
その時だった。
遥か遠くの回廊から、腹に響くような轟音が響き渡る。
強固な防壁が粉々に砕け散る音。
生々しく肉が裂ける不快な音。
白雪が振るう苛烈な剣戟。
カリンが解き放つ膨大な魔力爆発。
名もなき誰かの、必死の叫び。
そして、一瞬だけ――。
重厚な金属が、限界を超えて折れるような音が途切れた。
エドリックの、あの揺るぎない気配が。
セレナの呼吸が、激しく乱れる。
桃太郎は決して振り返らない。
振り返る余裕など、一瞬たりとも残されていない。
そのわずか一秒、死線を彷徨う一秒は、仲間たちがその血を代償にして買っている時間なのだから。
アッシュが、楽しそうに嗤った。
「聞こえるか。お前たちの仲間が、一人、また一人と壊れていく音だ」
黒い蔓が、逃げ場を塞ぐように空間の全てを満たしていく。
もはや逃げ道はない。
目の前にあるのは、圧倒的な“世界そのもの”から向けられた明確な敵意だった。
「お前たちは何も変えられない。誰一人守れない。何も救えない。最後には、積み上げてきた全てを失うのだ」
セレナの肩が、絶望に打ちひしがれて小さく震えた。
肺に入る空気は薄く、呼吸はどんどん浅くなっていく。
忌まわしい過去が、どろどろとした泥水のように喉元までせり上がってきた。
燃え盛る家屋。
助けを求める泣き叫ぶ声。
必死に差し出した、あの時の震える手。
……それでも、届かなかった。
彼女の内側から、制御を失った魔力が漏れ出す。
極大の爆裂魔法。
それはもはや攻撃ではなく、内側から崩壊を始める暴発寸前のエネルギーだった。
「セレナ」
桃太郎の声が、低く、短く響いた。
「まだだ」
「……でも、だってもう……!」
「撃つな」
静かな声。だが、それは一切の反論を許さない絶対的な断定だった。
桃太郎の鋭い視線は、依然として石盤の深淵から外れていない。
「今それを壊せば、すべてが終わる。……この世界ごと、だ」
重苦しい沈黙が場を支配する。
アッシュは満足そうに、愉悦の色を浮かべて口角を上げた。
「そうだ。賢明な判断だな。お前たちに、もう残された選択肢など存在しない」
ドクン。
絶頂を迎えるように空間が大きく脈打つ。
無数の黒い蔓が、獲物を絞め殺すために一点へと収束していく。
退路は、完全に断たれた。
それでも。
桃太郎は、折れそうなほど強く杖を握り締めた。
恐怖に膝をつきそうなセレナの前に立ち、その一歩を、前へと踏み出す。
数式は依然として崩れ、プロマッピングはエラーの赤色に染まっている。
計算上の勝率は、限りなくゼロに近い。
それでも、桃太郎は神に運命を委ねるような男ではなかった。
自らの緻密な計算と、血の滲むような努力だけで正解をこじ開けてきた「努力オタク」である彼は、今この瞬間も、自分の「計算ミス」や「詰め切れていなかった自分」に対して誰よりも深く絶望し、激しい怒りを感じていた。
そしてその絶望こそが、彼を突き動かす。
「……チクショウ」
己の不甲斐なさを呪うように、低く吐き捨てる。
「やるしかないだろ。……やってやるよ」
その瞬間。
彼の足元から、黒く輝く異質な算式が、波紋のように静かに、だが力強く世界へと広がり始めた。
アッシュの瞳が、驚愕にわずかに細くなる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回はかなり絶望感強めの回でした。
努力も理論も通じない相手に、それでも抗おうとする桃太郎を書いていて、自分でもかなり熱が入りました。
ここから物語も一気に加速していきます。
次回もよろしくお願いします。




