第六章 マティスの書
「えっ?」
永瀬優梨奈は思わず声を出した。
学校からほど近い公園。寮に帰るには少し遠回りだが、優梨奈は帰りにこの公園をよく通る。
とはいっても、最近一週間は通らなかった。
何故かというと。
一週間前にこの公園の階段で転落事故があった。
事故だということは三日後に分かったが、それまでは事件か事故かわからなかったため、なんとなく近寄り難かった。
転落の原因がわからなかったのは、転落した会社員の男性が意識不明になっていたからだ。意識が回復したことで、足を踏み外して転落したということがわかった。考え事をして踏み外したが、何を考えていたのかは覚えていないということだった。
現場の様子からも事件性はないと判断されて、事故として処理された。
その階段に少女の姿を見つけた。後ろ姿だが小学校の高学年くらいに見える。スマートフォンを手にしているが、画面を見ている様子はない。真っ直ぐ前を、いや少し下方、つまり階段を見ている。
階段の下に何かあるのだろうか?
優梨奈がそう考えた次の瞬間、少女の姿が消えた。
(落ちた?)
そう。消えたのではない。転落したのだ。
優梨奈は階段に駆け寄った。
下を見ると少女が倒れていた。少女の他には誰もいない。階段の途中にスマートフォンが落ちている。
優梨奈は急いで、だが慎重に階段を駆け降りた。
少女は頭から血を流していた。それを見た優梨奈は血の気が引く。
(救急車を呼ばなきゃ)
優梨奈は慌てて一一九番通報した。
何を話したのかはよく覚えていないが、通報して人と会話したことで、優梨奈は少しずつ落ち着きを取り戻した。
通報の中で脈を確認したことも、優梨奈を落ち着かせる理由になった。少女の脈はしっかりしていた。
しばらくして、警官が自転車でやってきた。近くの派出所に連絡が入ったようだ。
「どうしましたか?」
警官は少女の脈を確認しながら優梨奈に訊いた。
「階段から落ちたんです」
「知っている子?」
「いいえ、知らない子です」
優梨奈は少女の顔に見覚えがなかった。
「落ちるところは見たの?」
警官に訊かれ優梨奈が答えようとした時に、救急車が公園の入り口に停車した。
「ちょっと待って」
答えようとした優梨奈を警官が制止した。
救急車から降りた二人の救急隊員が、倒れている少女に向かう。
救急隊員は警官と言葉を交わしながら、少女の様子を診る。手早く少女を担架に乗せると、乗ってきた救急車へと向かう。
「それで、落ちるところは見たのかな?」
救急隊員と話を終えると、警官が優梨奈に言った。
「わたしが見た時には、ちょうど落ちる瞬間でした」
正確にはその少し前から見ている。しかし、優梨奈はそれを話すことを躊躇った。
「落ちる瞬間?」
「はい、あの子に気づいた瞬間に、階段から落ちて姿が見えなくなりました」
優梨奈が答えていると、警察車両が二台到着した。捜査員を乗せた車両と鑑識の車両だ。鑑識の車両から降りた鑑識員は、少女が倒れていた場所と階段の上の二手に分かれた。
捜査員は警官に経緯を確認すると、警官に代わって優梨奈に質問した。
「牧本と言います。こちらは須藤です。あなたの名前を教えてください」
「永瀬優梨奈です」
優梨奈が答えると、捜査員の若い方の須藤が、どういう字を書くのかを訊いてきた。
「ありがとう。永瀬さんは、濤嘉女学館の学生で間違いないですね?」
須藤が続けて質問した。優梨奈の制服に気づいたからだ。
「はい、二年五組です」
「ご家族とは離れて暮らしているんですか?」
「はい……わたしの家は九州です」
濤嘉女学館は全寮制の高等学校だ。地元の学生は少なく、他地域からの学生がほとんどだった。
「他に誰か見ていませんか?」
須藤に変わって再び牧本が優梨奈に質問した。
「階段の上には誰もいませんでした」
優梨奈は思い出しながら答えた。少なくとも少女の周辺には誰もいなかった。
「階段の上?」
牧本は優梨奈の表現が気になったようだ。
「わたしは階段の上にいましたので……」
「なるほどね。階段の下はわからないが、階段の上にはいなかった」
牧本は感情を込めずに言った。それが確かであれば、ぶつかったり突き落とされたのではなく、不注意あるいは故意に転落したことになる。もちろん、優梨奈の証言を鵜呑みにはしない。
「転落するのを見て、あなたはどうしましたか?」
「すぐに階段まで駆け寄りました。下を見たらあの子が倒れていたので、急いで階段を降りました」
「その時には誰か見ましたか?」
「周りを見回した訳ではありませんが、あの子の近くには誰もいませんでした」
突然のことで、優梨奈には周囲を見る余裕はなかった。
「転落した子のことを知っていますか?」
「いいえ、知らない子です」
優梨奈はその後もいくつかの質問に答えた。牧本は終始、表情を変えることはなく、優梨奈はそれが不安だった。




