エク谷
中央山に近付いてはいた。しかし山に入るのには難所を越えねばならなかった。エク谷である。
エク谷は深く、谷から下に流れる川に落ちたら助かる見込みはなかった。他にも岩猿という、このエテン大陸でもマートとアルカニスにのみ生息する猿がいた。山間部に住む大きな体をした猿である。体は灰色で岩のように見えることからその名がついた。力が強く、大きな岩を軽々と投げてテリトリーに入ったものを威嚇する。威嚇で怯まないと当ててくる。
そんな岩猿がエク谷に住み着いている。彼らがいるというだけで人は迂回する。交戦的で危険な猿だからだ。
「──まあ、そんなのがいるらしいから、一応注意していこう」
カルエはヨマの説明を聞いて困惑した。岩猿は聞いたことがあり、随分危険だということは知識として持っていた。彼女の周辺では木のような大きさの大トグロ蛇と雷のときに現れるという、羆よりも大きくそして俊敏であるといわれる雷熊と同じくらい怖い存在だと伝わっていた。そしてそれらの存在は決して遭遇率が低いわけではないという。
そんな恐ろしい場所には行きたくない。第一エク谷といえば足場の悪い細道を進む難所だ。万が一そんなところで襲われでもしたら……。
「まあ、私がいるから大丈夫だろうが、馬は無理だろう。この馬は賢いから私の実家まで勝手に帰るだろう。だから馬は谷の直前で帰らせる」
「馬一匹でいたら誰かに捕まらないですか?」
「うん。いざとなったら凄まじいスピードで走るからな。蹄鉄がいいからね。心配いらないと思うよ」
緩やかだったり急だったりの傾斜を進み、二人はエク谷にきた。
馬を離し、二人は切り立った崖にある小道を進んだ。崖は所々崩れた後があり、歩幅を大きくしないと進めないところもあった。
谷はさほど深くはなかった。落ちても死なないだろうと思えるほどではあったが、カルエは谷底を歩く気には到底なれなかった。谷底は急流の川なので、高さで死ななくても流されて死ぬのだ。
川の中央には陸地があるのだがそこは人間にとっては川に流されるのと同じくらい危険な場所だった。ごつごつした岩場で、その岩の中には一際大きな岩が動いていた。それは勿論岩に見えるが岩ではなく、懸念していた岩猿だった。
「気にするな。奴らを刺激しないように」
ヨマの言葉にカルエは頷くも、気にするなというのは無理だった。岩猿はカルエの想像より大きかった。猿というくらいだから、人よりは小さいだろうと思っていた。しかし人と同じくらいの背丈に人よりも大きな横幅を有していた。
村中の人間が怖がるわけだとカルエは納得した。岩猿は凶悪な顔つきをしていていて、猿にも見えるが悪鬼のようにも見えた。
岩猿はこちらに気づいていないのかそれとも興味がないのか、四つ足で歩いて、どこかにいってしまった。しかしまだもう一匹、カルエが気づかなかっただけでカルエたちに比較的近い場所に岩猿がいた。
ヨマはカルエの手を掴むと走りだした。一気に通路を越える気だった。突如、大きな石がカルエとヨマの目の前を横切った。
岩猿が投げているのにカルエは気づいた。岩猿は近くにある石を次々と投げてくる。間一髪のところで当たらなかったが、運が悪ければ頭が潰されていたかもしれない。勢いのある投石だった。
岩猿は二本足で立っている。睨んだ目は明らかな敵意をこちらに向けてくるが、カルエには彼らにそこまで敵意をあらわにされる覚えがなく、ただただ怖かった。
岩といっていい大きさのものが飛んできた。そこで彼らは万事休すだったかもしれない。しかし、幸いなことにヨマは結界石を持っていた。身につけていればいざというときに見えない障壁を発生させる特殊な石である。そう効果は持続しないが、今はとても重宝した。防御の障壁は彼らを護り、衝撃こそあったものの二人とも無傷ですんだ。
「あと一つでも当たればもたない。急いで」
細道をヨマは楽々と走り抜ける。カルエもヨマの動作を真似して走ったので落ちることはなかった。二人は岩猿が見えなくなるところまで行くと体を休め、それからゆっくりと谷越えに挑んだ。
「とりあえず危機は去った。あとはゆっくりといけばいい」
よくこんなところを走れたなと、少しでも足を踏み外せば急流に落下する場所を歩きながらカルエは背筋を強ばらせた。




