黒き風の解放
「――というわけで! 隔離寮で縮こまってちゃストレスも溜まるでしょ! 今日はみんなで『サウナ』に行くっすよ!」
旧校舎の裏手、特別隔離寮の談話室。
リノがいつものように携帯端末の画面を勢いよくテーブルの中央に突き出してきた。
画面に映し出されているのは、青い海を一望できる木造テラスと、もくもくと立ち上るアツアツの蒸気。
「サ……ウナ……?」
パイプ椅子に浅く腰掛け、参考書を睨んでいたクロちゃんが胡乱そうに眉をひそめた。
「そうっす! 都市の南端、海沿いの崖上にある完全貸切プライベートサウナ『シーブリーズ』! 前にノアちゃんと夜々ちゃんと行った絶景スポットなんすけど、冴香先生に『07番被検体の血行促進と情操教育』って名目で特別外出許可をもらってきたっす!」
「ふぇぇ……海風に吹かれながら汗を流すと、嫌なことぜーんぶ忘れられますよぉ……!」
隣で夜々が、両手を胸の前で合わせてぽわぽわと目を輝かせる。
「……はぁ!? アンタたちバカなの? アタシは監視付きの身なのよ? なんでそんな蒸し風呂みたいなとこで人間どもと仲良く汗を流さなきゃいけないわけ!?」
「はいはい、クロちゃん、着替えはもうクラリス先輩特注のやつをカバンに詰めてあるっすからね〜! 連行っす!」
「ちょっと! 腕引っ張んなバカ眼鏡!! 離しなさいよぉぉぉっ!!」
◇
週末、学園都市郊外の海沿い。
――貸切サウナルームの脱衣所。
「……な、なんなのよ、これぇ……」
バスタオルを胸元でぎゅっと握りしめたクロちゃんは、脱衣所のスノコの上でワナワナと小刻みに震えていた。
首元には鈍色に光る監視の首輪。
そして、その視線の先には――
「クロちゃん、お背中流しましょうかぁ……?」
百八十センチを超える長身、しなやかな手足、そしてタオル一枚では到底隠しきれない凶悪なまでの破壊力を誇るプロポーションの夜々が立っていた。
さらにその隣では――
「ふぅ〜! やっぱり海風を感じながらのサウナは最高っすねぇ〜!」
普段のだぼっとしたローブを脱ぎ捨て、健康的に引き締まった肉付きを惜しげもなく晒すリノ。
「み、見んじゃないわよアンタたちッ!! こ、こっち来んなデカ女ぁぁぁっ!!」
「ひゃぅぅ、夜々は仲良く背中を流しっこしたかっただけですぅ〜!」
「アタシの背中に触ったら皮ごと削ぎ落とすわよ!!」
元より培養槽の液体の中で育ち、他人と肌を晒し合う文化などミリ単位も知らなかったクロちゃんにとって、この空間は拷問部屋以外の何物でもなかった。
サウナストーンにアロマ水をかけるロウリュの灼熱と、視覚的な暴力により、入室三分でクロちゃんの顔はゆで蛸のように真っ赤に茹で上がった。
それでも――水風呂で悲鳴を上げ、ようやくウッドデッキの外気浴スペースへ辿り着いた時。
リクライニングチェアに深く腰掛けたクロちゃんの鼻先を、どこまでも澄んだ潮風がすっと撫でていった。
「…………っ」
目の前には、どこまでも果てしなく広がる青い大海原。
吹き抜ける風が、火照った身体を優しく冷ましていく。
制限された気怠い魔力も、首輪の鈍い重みも、この広大な空の下ではほんの少しだけ軽く思えた。
「……はぁぁ……これが『ととのう』ってやつっすねぇ〜……」
「はいぃ……風が、すっごく気持ちいいですぅ……」
並んで寝そべるリノと夜々が、蕩けたような顔で息を吐いている。
(……風)
クロちゃんは、ぼんやりと空を見上げた。
あいつ――ノアも、ここでこうして風を感じていたのだろうか。
壊すためでも、誰かを傷つけるためでもない、ただ世界を巡るための風。
そんな、ぽっかりと訪れた奇跡のような静寂を――鋭い絶叫が切り裂いた。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!? だ、誰か助けてぇぇぇっ!!」
「……っ!?」
クロちゃんの耳がピクリと跳ねた。
ウッドデッキの仕切り壁の向こう、崖下の遊歩道からだ。
「な、なんの悲鳴っすか!?」
「夜々、見てきますぅ……!」
リノと夜々が慌てて立ち上がり、柵へ駆け寄る。
木柵の上から下を覗き込むと――そこには、買い出しの紙袋を落として腰を抜かしている一般の観光客の女性と、その眼前で獰猛な牙を剥く、二匹の【シャドウ・ウルフ】の姿があった。
「なっ……ダンジョン外の野良モンスター!? また地上に漏れ出してるっすよ!」
「き、危険ですぅ! すぐに警備隊に通報を――」
「――チッ、トロくさいことやってんじゃないわよ!」
「え……?」
リノが振り返った、その刹那だった。
黒い疾風が、リクライニングチェアを蹴り飛ばした。
クロちゃんの赤い瞳が、獲物を捉えた獣のように獰猛にギラつく。
(……ノア)
あいつなら、迷わず飛び降りて助けにいくはずだ。
あいつなら、馬鹿みたいにお人好しな顔で、見ず知らずの人間を庇うはずだ。
なら――ここでアタシが助ければ、あいつが救うはずだった命をアタシが横取りしたことになる。
いい気味だった。
「クロちゃん!?」
「ま、待ってくださいぃぃっ!!」
二人の制止を完全に置き去りにし、クロちゃんはウッドデッキの手すりを素足で力強く踏み切った。
『――警告。魔力出力が上限規定値の十五パーセントを――』
「うるっっっさいわね機械風情が!! 十五パーセントもあれば充分よ!!」
首輪の電子警告音を怒鳴り声でねじ伏せ、クロちゃんは重力を風で強引に殺しながら、崖下へと滑空した。
着地の瞬間、舞い上がった土煙。
腰を抜かした女性と、飛びかかろうとしたシャドウ・ウルフの間に、小柄な影が滑り込む。
「グルルァッ!?」
「アタシの縄張りでギャーギャー喚いてんじゃないわよ、駄犬がぁッ!!」
クロちゃんは右手を薙ぎ払った。
十五パーセントに制限された極小の魔力。
だが、かつて中枢で猛威を振るった『黒き風』の技術は伊達ではない。
大気を極限まで圧縮し、カミソリのように研ぎ澄まされた二条の不可視の風刃が、寸分の狂いもなく二匹の狼の眉間を同時に撃ち抜いた。
ズバァァァンッ!!
「ギャウンッ!?」
悲鳴とともに吹き飛ぶ魔獣。地面に激突した巨体は、一撃で光の粒子となって霧散した。
「ふん……図体ばっかりで中身のない駄犬ね」
フンと鼻を鳴らし、クロちゃんは乱れた黒髪をかき上げた。
足元でへたり込んでいた女性客が、ポカーンと口を開けてクロちゃんを見上げている。
「あ……え……? た、助かった……?」
「別にアンタを助けたわけじゃないわよ。たまたま虫酸が走る犬がいただけ」
クロちゃんはそっぽを向き、ツンと顎をしゃくった。
「怪我がないならさっさと逃げなさい。礼なんて言ったら吹き飛ばすわよ」
だが――女性客は逃げるどころか、ポッと頬を朱に染め、視線を激しく上下に泳がせ始めた。
「は、はいっ……! あの、ありがとうございます……! で、でも、あの……その……!」
「……あ? 何よ、文句でもあるわけ?」
クロちゃんが不機嫌そうに睨みつける。
その時だった。
「クロちゃぁぁぁぁぁんっっ!!」
「クロちゃぁぁんっ! バスタオル! バスタオル巻いてくださぁぁぁいっ!!」
崖上の階段から、大慌てで服を着たリノと夜々が、特大のバスタオルを広げて猛ダッシュで駆け下りてきた。
「は……? バスタオル……?」
ふと、下を見る。
足元を通り抜ける、ひんやりとした心地よい潮風。
肌に直接当たる、暖かな太陽の光。
首元には、チョーカー型の首輪。
――以上。
「……………………あ」
サウナから、文字通り完全なすっぽんぽんのまま飛び降りていた。
「ひゃあああああああああああああああああああああああっっっ!?!?!?」
崖下に、天地を裂くような少女の絶叫が木霊した。
「見んな! 見んじゃないわよバカァァァッ!!」
両手で必死に前を隠し、顔から火が出るどころか頭から湯気を噴き出してしゃがみ込むクロちゃん。
そこへ滑り込んできた夜々が、ガバッと巨大なバスタオルでクロちゃんの小さな身体を包み込んだ。
「クロちゃん、開放的すぎますぅぅぅっ!!」
「美少女のフルオープンは犯罪っす! ていうか首輪だけつけて全裸で飛び降りるとか、どんな高度な性癖っすか! 天才のやることっすよ!!」
「殺す!! アンタたち全員ミンチにしてやるわぁぁぁぁぁっ!!」
真っ赤になって暴れ狂うクロちゃんを、夜々が俵担ぎのように抱え上げ、リノが女性客に「す、すいませぇぇぇん! 取り込み中なんでぇぇっ!」とペコペコ頭を下げながら、三人は這々の体でサウナ施設へと逃げ帰ったのだった。
◇
脱衣所で服を着直し、ようやく噴き出す蒸気が収まってきた頃。
クロちゃんはベンチの端で膝を抱え、耳まで真っ赤にしたまま、ずっと壁の染みを睨み続けていた。
「……死ぬ。もう死んでやる。あいつの首根っこ掴む前に、アタシが恥で死ぬわ……」
「まあまあ、クロちゃん! ほら、フルーツ牛乳買ってきたっすよ!」
「飲まない!! 毒でも入ってんでしょ!!」
プイと顔を背けるクロちゃんだったが、リノが腰に手を当てて「んっ、んーっ」と美味しそうに牛乳を飲むのを見て、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
差し出された冷たい瓶を、結局は奪い取るようにして一気に飲み干した。
「ぷはっ……! ……ふ、普通ね。ちょっと甘ったるいわ」
「ふふ、素直じゃないですぅ」
そんな騒ぎの最中、リノの端末がピリリと軽快な着信音を鳴らした。
画面に表示されたのは、水無瀬マリンからのビデオメッセージ。
『やっほー、リノちゃん! ギルド上層部との特設ステージ使用の折衝、無事に全部クリアしたよーっ! 各フロアの設営もあるから、合宿の配信本番は来週からね! 首輪ちゃんもそれまでにしっかりチームに馴染んでおくんだよー!』
「誰が首輪ちゃんよ!!」
「――よし! というわけでクロちゃん、本番まではあと一週間! まだまだみっちり準備期間があるっすよ!」
怒鳴り散らしながらも、クロちゃんの赤い瞳には、先ほど魔獣を切り裂いた時の鋭い光が戻っていた。
十五パーセントの魔力でも、身体は動いた。
守りたいもののために、風はまだ刃になれる。
恥ずかしさで真っ赤に染まった少女の胸の奥で、確かな反撃の火が、パチリと音を立てて燃え上がっていた。




