嵐の後、首輪の少女
学園都市を揺るがした未曾有のテロ事件から、数ヶ月の月日が流れていた。
結界中枢の破壊、翠光教を隠れ蓑にした暴徒の襲撃、そして都市全域を巻き込んだ戦火。街のあちこちには今なお深く生々しい爪痕が残り、復旧作業の重機やドローンが慌ただしく飛び交う区画は少なくない。
だが、あれほどの大事件でありながら、首謀者たちの足取りは深い霧の向こうへと消え去っていた。
背後にちらついていたメガコーポレーションや企業連合との決定的な繋がりを示す証拠は、巧妙なトカゲの尻尾切りによって綺麗に消去。関係者たちは一様に沈黙を貫き、真相は政治の暗闇の底へと握り潰される形となった。
何より、学園都市の上層部が事件の追及を早々に打ち切った最大の理由――それは、テロの収束と同時に発生した異常事態だった。
世界樹ダンジョンの最深部。
人類未踏の底の底から噴き出す『瘴気』の急激な活性化。
観測史上類を見ないその歪みは、ノアを連れ去った正体不明の存在――光の精霊『ルシフェラ』と何らかの関連があると見なされ、ギルドと学園の研究機関はその対応と調査にすべてのリソースを割かざるを得なくなっていたのだ。
――そして、ノアを奪われたリノたちは。
「……はぁっ、はぁっ……! もう一回っす、氷華さん!」
「ええ、いい踏み込みです。ですが刃の軌道がわずかに高い。相手に風を読まれますよ!」
第3屋内訓練場に、激しい衝突音が木霊する。
すぐにでもダンジョンの奥へ飛び込み、ノアを助け出したい衝動は全員の胸に燻っていた。けれど、肝心のルシフェラの居場所は杳として知れず、最奥の瘴気は生身の人間を瞬時に呑み込む濃度に達している。
焦って突撃したところで犬死にするだけだ。傷を癒やし、万全の準備を整え、確実に奪還するための力を蓄える――それが、鳴神冴香から課せられた絶対の猶予期間だった。
ノワールは獅堂を保護者兼身元引受人とし、1年Aクラスへと編入。不器用ながらも夜々やクラスメイトたちと学園生活を送りつつ、静かに爪を研いでいる。
そして――。
◇
「……ったく。あのお偉いさん連中は、学生の命も実験用のモルモットと大差ないと思ってるらしいな」
教員寮の一室で、鳴神冴香が深いため息とともに缶コーヒーのプルタブを引いた。
その視線の先にある書類のタイトルは――【特異生体・被検体07(黒き風)に関する経過観察および研究協力認可書】。
テロの急先鋒として暴れ回った人造精霊。
本来なら極刑か、国家の特別研究施設で一生解剖されるはずの身の上だった。だが、彼女が「完全な研究協力」を申し出たこと、そして体内に埋め込まれた暴走防止・遠隔処刑用の『監視の首輪』を受け入れたことで、学園の特別隔離寮での生活と行動が特例で許可されたのだ。
「研究データが取れるなら、反省の素振りを見せたテロリストでも手元に置いておく、か。……まあ、その功利主義のおかげで、ノワールやノアが表の生活を送れてきたんだ。私があの狸どもをとやかく言えた義理じゃないがね」
冴香は自嘲気味に呟き、冷めたコーヒーを飲みほした。
「……とはいえ。あいつを迎え入れるあの子たちの神経は、教師の私でもたまに理解できんよ」
◇
学園の一角、旧校舎の裏手にある特別隔離寮の庭。
寮の周りには、武装した警備兵が24時間体制で警備を続けていた。
「…………」
厳重な鉄柵に囲まれたベンチで、小柄な黒髪の少女が、所在なげに膝を抱えて空を見上げていた。
黒曜石のように艶やかな髪に、血のように赤い双眸。
かつて結界中枢で猛威を振るい、街を恐怖に陥れた『黒き風』――
その細い首元には、無機質な鈍色に光るチョーカー――魔力を厳重に制限し、反逆の兆候があれば即座に神経を焼き切る『監視の首輪』が嵌められている。
(……チッ)
少女は苛立たしげに首元を爪でカリカリと掻いた。
だが、その苛立ちの正体は、首輪の締め付けによるものではなかった。
体内に投与されていた大量の魔力ブースターや狂暴化薬の毒素は、すでに医療班によって完全に抜き取られている。
頭を焼き焦がしていた薬物の熱が引き、洗脳の靄が晴れた今――少女の内側に広がっていたのは、驚くほど静かで、不気味なほどの「空虚」だった。
(……アタシ、なんであんなに必死だったわけ?)
『アタシが本物だ』『あいつを超えてやる』『壊して証明してやる』。
あの頃、胸を狂おしいほど満たしていたはずのドロドロとした嫉妬心も、世界を焼き尽くしてでも自分を認めさせたいという肥大化した顕示欲も――薬が抜けた途端、綺麗さっぱり消え失せていた。
残ったのは、ぽっかりと胸の真ん中に穿たれた、底知れない黒い穴だけ。
誰かの身代わりとして作られ、誰かを殺すためだけに命を吹き込まれた。
その「憎悪」という唯一の生きる燃料を取り上げられた自分は、ただの空っぽの張り子に過ぎない。
だが――。
その空洞の底で、たった一つだけ、消えずにチリチリと燻り続けているものがあった。
(……ノア)
思い出すだけで、奥歯が砕けそうになる。
あの光の女に「使い捨ての泥人形」と嘲笑われ、殺されかけた自分。
死を受け入れた自分の頭上に、背中を裂かれながら割り込んできたリノの体温。
そして、光の鎖に全身を軋ませながら、自分なんかのために障壁を張り、消え去る間際まで優しい瞳を向けていたあの銀髪の少女――。
(……ふざけんじゃないわよ)
少女はぎゅっと自分の両腕を抱きしめた。
哀しいのではない。反省してしおらしくなったのでもない。
ただただ、虫酸が走るほどプライドが許さなかったのだ。
本物に憐れまれ、庇われ、生き残らせてもらったという屈辱。
あんな甘っちょろいヤツに、命まるごとの【借り】を作らされたまま、自分だけがのうのうと生きているという事実。
(アンタに貸しを作ったまま終わるなんて、死んでも御免よ。……絶対に引きずり戻して、アタシの手で落とし前をつけさせてやるんだから)
それだけが、空っぽになった少女をこの世界に繋ぎ止める、唯一の衝動だった。
「おーい! クロちゃーーん! 待たせちゃってごめんっすー!」
間の抜けた大声が響き、少女――クロちゃんは不快そうに眉を跳ね上げた。
振り返ると、フェンスのゲートから、両手に購買のビニール袋を提げたリノが全速力で走ってくるところだった。その後ろから、長身の影守夜々がおっとりとついてくる。
「……だ、誰がクロちゃんだってのよ! アタシは――」
「はいはい、クロちゃん! 今日は購買の激戦を勝ち抜いて、幻の『購買部特製・厚切りカツサンド』をゲットしてきたっすよ!」
「ふぇぇ……夜々も、焼きそばパンとプリンを死守しましたぁ……!」
ドサリとベンチに広げられる、山のようなジャンクフード。
氷華やクラリスたちはいまだに彼女に対して複雑な心境で、なかなか距離は縮まらずにいた。それは当然だ。かつて命を狙い合った敵なのだから。
だが――この二人だけは、最初から完全にネジが外れていた。
「……アンタたち、バカなの? アタシはアンタたちを殺しかけたテロリストよ? なんでそんなヘラヘラと餌付けしに来るわけ?」
クロちゃんは鋭い眼光で二人を睨みつけた。威嚇するように腕を組む。
だが、リノは黒縁眼鏡をクイと押し上げ、どこ吹く風でカツサンドの包装をペリペリと剥がす。
「だって、クロちゃんがお腹空かせてたら、ノアちゃんを助けに行くときに力が出ないっしょ?」
「は……?」
「それにぃ……」
夜々がとろんとした瞳で、クロちゃんの前に大きな体を丸めてしゃがみ込んだ。
「クロちゃん、ノア先輩を助けたい気持ちは……夜々たちと、ぜんぶ一緒ですぅ。だから、仲間です」
「な……っ!? ななな、何言ってんのよデカ女! 助けたいんじゃない、アタシはあいつに貸しを返しに行くだけよ! 勘違いしないで!!」
カッと頬を赤くして捲し立てるが、夜々は怒るどころか「えへへ、照れてますぅ」と嬉しそうに目を細めている。
調子が狂う。毒気を抜かれるどころの話ではない。
生まれた時から冷たい実験室で、罵倒と激痛しか与えられなかったクロちゃんにとって、この二人の無条件の「緩さ」と「やさしさ」は、どんな強力な攻撃魔法よりも防ぎようがなかった。
「ほらほら、能書きはいいから食べるっす! ほら、あーん!」
「ふぐっ……!? むぐ、んんっ……!」
リノが強引にカツサンドを口元へ押し込んでくる。
反射的に噛み締めてしまった瞬間――サクサクの衣と、甘辛いソース、肉汁の旨味が口いっぱいに広がった。
「…………っ!」
「どうっすか? 美味しいでしょ!」
「……べ、別に。……ふ、普通よ。……ちょっと油っこいし、ソースが濃い……」
モグモグとリスのように頬袋を膨らませながら、クロちゃんはプイと顔を背けた。
だが、その小さな手は、しっかりと二口目を求めてサンドイッチの端を掴んでいる。
(……あったかい)
喉を通っていく食べ物の温かさに、胸の奥の冷たい空洞が、じんわりと満たされていくような感覚。
薬で無理やり力を引き出され、壊れるためだけに戦わされていたあの頃とは、世界のすべてが違っていた。
(待ってなさいよ……バカノア)
口いっぱいにカツサンドを頬張りながら、クロちゃんは赤い瞳の奥に、ギラリと獰猛な光を宿した。
命を救われた借りは、必ず返す。
その首根っこを掴んで引きずり戻し、文句の百万言も叩きつけてやるまでは――絶対に、死んでなんかやるものか。
首輪を巻かれた生意気な風の少女が、新たな一歩を踏み出していた。




