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やさしさの落とし前

大粒の涙が、黒き風の少女の頬を止めどなく伝い落ちていく。


煤と返り血に汚れ、熱線で装甲の砕けた小さな両手を、少女は信じられないものを見るように震わせていた。

背中を光刃で裂かれ、口元から鮮血を零しながらも、覆いかぶさったリノの手は、その冷え切った手を絶対に離そうとしなかった。


ノアが命を削って割り込ませた大気障壁の温かな残滓が、中枢の冷気を優しく払っている。

胸を締め付けていた怨嗟も、狂気も、自暴自棄の破壊衝動も、差し出された無償の体温の前に跡形もなく融解していく。


――生まれて初めて向けられた、「君は君のままでいい」という肯定。

世界を憎むことでしか保てなかった少女の魂の輪郭が、激しい嗚咽とともに崩れ落ちていた。


しかし。

世界は、その奇跡のような救済の余韻を、一秒たりとも待ってはくれなかった。


「……あは。本当に、見苦しいお人形さんね」


凛と澄み渡る、けれど背筋の凍るような甘やかな鈴の音が、崩壊した天蓋から降ってきた。


背後に幾重もの黄金の光輪を浮かべ、音もなく虚空を踏みしめて舞い降りてくる少女――光の精霊、ルシフェラ。

彼女は自ら放った処刑の刃を防がれたことなど毛頭気に留める様子もなく、無数の光の鎖で雁字搦めにされたノアだけを、狂おしいほど熱情的な瞳で見つめていた。


「ル、シフェラ……ッ!」


首筋と四肢に食い込む灼熱の鎖の激痛に耐え、ノアは軋む喉から必死に声を絞り出した。


「どうして……こんな酷いことを……っ!」

「どうして? ふふ、自分の心配をしなさいな、愛しのノア」


ルシフェラがくすくすと細い喉を鳴らす。

彼女の指先が軽く跳ねるだけで、ノアを縛り上げる光の鎖が一斉に軋みを上げ、華奢な身体を容赦なく締め上げた。


「ぐ、ぅ……ああっ……!?」

「ノアちゃんッ!!」


リノが叫び、千切れそうな身体を引きずって手を伸ばそうとするが、背中の深手により瓦礫の上へ崩れ落ちてしまう。

ルシフェラはそんなリノや、涙に暮れる黒き風を一瞥すらしない。

その黄金の瞳に映っているのは、太古の昔からただ一人――ノアだけだった。


「ねえ、ノア。どうして私が、今まで貴方を迎えに来なかったか分かるかしら?」

「な……にを……」

「貴方が目覚めた時、あの人間と混ざり合って、壊れかけの小鳥みたいに弱々しかったからよ」


ルシフェラは恍惚とした笑みを浮かべ、愛おしそうにノアの青ざめた頬へ、冷たい指先を滑らせた。


「だからね、丹精込めて育ててあげたの。御子柴っていう人間の愚かな復讐心を利用して、あの檻で五大精霊の魔力を流し込ませて……それでもまだ足りないから、貴方の魔力から造らせたこの泥人形をぶつけて、あの禁忌の秘術――『霊装合一《アヴァターラ》』まで引っ張り出させたのよ」


戦慄が、その場に満ちる大気を凍りつかせた。


御子柴に授けられたという深淵の術式も。

黒き風という哀しき複製体の誕生も。

学園都市全域を巻き込んだこの大戦乱のすべてが――ノアの風精霊としての力を極限まで覚醒させ、「最も美味しく熟させる」ための育成の仕込みに過ぎなかったのだ。


「見て、今の貴方の神気……あの日よりもずっと清らかで、甘く熟れきってるわ。……そして何より、この瞬間。合一を解いて、あの出来損ないに気を取られて……魂の防御壁が一番薄くなった、奇跡の隙。他の精霊たちも、あの鬱陶しいノワールも、みんな遠くで手一杯。ふふ……完璧なタイミングだと思わない?」

「そんな……理由で……っ! この街の人たちも、この子も……道具にしたっていうの……!?」

「ええ、そうよ。だって、この世界で価値があるのは貴方だけなんだもの」


ルシフェラは当然の真理のように微笑んだ。


「昔からそう。貴方はいつだって、手のかかる愚図なノワールばかりを構って、私を見てくれなかった。……私を照らすための光でいてほしかったのに。でも、もう邪魔者は誰もいないわ。深淵の怪物の力も、世界樹の理も、ぜんぶ私が手に入れた。さあ行きましょう、ノア。もう誰にも、貴方を触らせないわ」

「連れていかせ、ない……っすよ……!」


瓦礫の底から、血を吐くような声が響いた。

リノが、割れた黒縁眼鏡の奥の瞳に激しい怒りと祈りを燃やし、震える膝に力を込めて立ち上がろうとする。


「アンタの……身勝手なエゴで……! リノたちの大事なノアちゃんを奪っていかせるわけ、ないっす……!!」

「……目障りね。羽虫《カトンボ》が」


ルシフェラが冷酷に瞳を細め、指先をリノへと向けた。

神気の光弾が凝縮される。触れるものすべてを分子レベルで消滅させる、絶対の光。


「だめ……っ! リノちゃん、逃げて――ッ!!」


ノアが悲痛に叫んだ、その刹那だった。


「ノアぁぁぁぁぁぁッ!!」


ズドォォォォォンッッ!!!


中枢を隔てていた残存の防護壁が粉々に爆砕し、紫黒のオーラを全身から噴き上げたノワール、そして漆黒の大盾を構えた夜々が突入してきた。

その後ろには、外縁の各拠点を制圧し、傷だらけになりながら駆けつけてきた氷華、クラリス、クローディア、冴香たちの姿もあった。


「ノアさんッ!!」

「離れろ、ルシフェラッ!!」


全員の視線が、光の鎖に繋がれたノアと、天蓋に座すルシフェラへと集束する。

満身創痍のノワールが地を蹴り、漆黒の爪牙を剥き出しにして肉薄した。

氷華が細剣を突き出し、クラリスが炎の切っ先を掲げ、冴香が紫電の刃を抜く。


だが――ルシフェラは眉一つ動かさず、冷笑を浮かべただけだった。


「あは。もう遅いよ、ノワール。……貴方たちなんかに、もう二度とノアは渡さない」


ルシフェラの背後で空間が黄金に歪み、世界の境界を穿つ次元の裂け目が口を開いた。

ジャララッ、と巻き取られる光の鎖。

ノアの華奢な身体が無理やり引き寄せられ、ルシフェラの腕の中へと抱え込まれる。


「みんな……っ! 来ちゃだめだ……っ!!」


激痛と拘束の重圧に、ノアの意識が白く滲んでいく。


「ノアッ!!」

「ノアちゃんッ!!」


伸ばされた仲間たちの手。

必死に虚空へ跳躍したノワールの爪先。

けれど――その誰の手も、届かなかった。


「じゃあね、有象無象の虫ケラたち。――ノアは、私のものよ」


カッ――と、世界そのものを白銀に塗り潰すような絶対の光が爆発した。


衝撃波が吹き荒れ、光が収まったあと。

砕かれた結界中枢には、吹き抜ける冷たい隙間風と、虚空を見上げて立ち尽くす仲間たちの姿だけが残されていた。


ノアの姿は、どこにもない。

世界樹の風が、光の深淵へと奪い去られてしまった。


「くそっ……! クソがぁぁぁッ!!」


ノワールが拳を床に叩きつけ、血を滲ませて咆哮する。

氷華は細剣を握る手を小刻みに震わせ、クラリスもクローディアも、冴香先生すらも、圧倒的な理不尽の前に言葉を失い、重苦しい沈黙と絶望が空間を支配していた。


――そんな中。

砕けた瓦礫の床に崩れ落ちたまま、微動だにできない少女がいた。

黒き風だ。


感情の器は完全にひび割れ、思考は黒いノイズで埋め尽くされていた。

生み出された理由も、生きてきた意味も、すべてはあの光の精霊の手のひらの上。

自分は最初から、本物のノアを覚醒させるためだけに作られた、使い捨ての泥人形。

生まれた意味すら、最初から無かった。


なのに。

その自分を庇って背中を裂かれたリノの血が、まだ頬にこびりついて冷えない。

消え去る間際まで、自分へ向けられていたノアの、あの泣きそうなほど優しい翡翠の瞳が脳裏から焼き付いて離れない。


(……なんなのよ)


声にもならない掠れた息が漏れる。


(なんなのよ、それ……! アタシはアンタを殺しに来た敵じゃない……! なんで庇うのよ……なんで、そんな顔して消えていくのよ……っ!)


泥人形なら、泥らしく踏み潰されて終わればよかった。

なのに、勝手に触れて、勝手に温もりを押し付けて、自分だけ攫われていくなんて――そんな理不尽、認めてたまるか。


悔しさと、罪悪感と、生まれて初めて知った胸の痛みが胃の腑を掻きむしり、少女は呼吸すら満足にできず、床に大粒の涙をポタポタとこぼしていた。


ザッ、と瓦礫を踏みしめる荒々しい足音が近づいてくる。


「……おい」


頭上から降ってきたのは、低く、苛立ちと殺気を剥き出しにした声だった。

涙で霞む視界を恐る恐る上げると、そこには血走った灰色の瞳で自分を見下ろすノワールが立っていた。

その隣では、背中を血で染めたリノが、肩を借りて激痛に耐えながらも、必死にこちらを見ている。


ノワールは床に蹲る黒き風を冷たく射抜いたまま、吐き捨てるように言った。


「いつまでそうやって、惨めに泣き寝入りしてるつもりだ」

「……え……?」

「あいつは……ノアは、お前を泥人形だなんて言わなかったはずだ」


ノワールは拳を固く握りしめ、自らの胸元――かつてノアに命を救われ、呪縛のように刻まれた痛切な記憶を押さえつけるように顔を歪めた。


「俺も、あいつのせいで人生狂わされた口だ。……勝手に飛び込んできて、勝手に命を張って、置いていかれそうになる痛さは、嫌ってほど知ってる」


ノワールが身を屈め、黒き風の眼前へ視線を合わせる。

その瞳に宿っていたのは同情などではない。ノアを奪われたことへの憤怒と、同じ「風の呪縛」を背負わされた者への獰猛な共犯の光だった。


「立てよ。……お前、あいつの偽物で終わる気か? あの光の女に『用済み』って言われたまま、ここで消えるのか?」

「……っ……!」


ピキリ、と胸の奥の澱みが音を立てて弾けた。

違う。

終わってたまるか。

使い捨ての道具として嘲笑われ、本物に庇われたまま惨めに生(・)き(・)残(・)る(・)なんて、死(・)ん(・)で(・)も(・)御免だ。


ズシッ、と。

少女は震える両手を床に突き立てた。

軋む骨、焼き切れた魔力回路の激痛を、奥歯を砕けんばかりに噛み締めてねじ伏せる。

ゆっくりと、けれど確かな殺気を宿して、その小さな身体を無理やり押し上げた。


袖で顔の涙と泥を乱暴に拭い去る。

伏せられていた双眸が上がった瞬間、そこに宿っていたのは、先ほどまでの迷いも涙もない――獰猛なまでに研ぎ澄まされた、真紅の業火だった。


「……ふざけんじゃないわよ」


地を潰すような、冷え切った呟き。

立ち尽くす探索者たち、精霊たちの視線が、一斉にその小さな黒い影へと集束する。


少女はふらつく足でしっかりと大地を踏みしめ、天蓋にぽっかりと空いた黄金の亀裂を睨み据えた。


「アタシを……泥人形呼ばわりしたことも」

「……」

「オリジナル(あいつ)なんかに庇われて、命拾いさせられたことも……全部、虫酸が走るほどムカつくのよ……ッ!」


血の滲む喉から絞り出された声が、次第にフロア全体の大気を震わせる怒号へと跳ね上がっていく。


「待ってなさいよ、ノア……っ!!」


びりびりと、砕けた中枢のコンクリートが共鳴して震えた。


「アタシが……っ! アンタに貸しを作ったまま終わらせてたまるかぁッ!! 誰が助けられて泣き寝入りなんかしてやるもんか……アンタの首根っこ掴んで引きずり戻して、アタシの手で落とし前つけさせてやる……ッ!!」


叫びとともに、少女の全身から紫黒の風がバチバチと火花を散らして再点火した。

善意でも、救済の誓いでもない。

踏みにじられた己の存在を証明し、自分に「心」を与えて奪われていった元凶を引きずり戻すための、意地と誇りの咆哮。


その剥き出しの闘志に、ノワールが獰猛に口角を吊り上げた。


「……上等だ」


氷華が、リノが、クラリスが、クローディアが――仲間たちの瞳の奥に、絶望を焼き払う静かな闘志が再び宿る。


失われた世界樹の風を取り戻すための、泥臭く苛烈な奪還戦が始まる。


(第2章・完)

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

本エピソードをもちまして、【第2章 完結】となります。


いつもコメントや評価いただいておりまして、おかげさまでここまでの長旅も

楽しく進んでこれております!


今後とも少しでも「面白かった!」と思っていただけましたら

評価やレビュー、コメント等、いただけたらとっても嬉しいです!


次回からは3章開始となります!

主人公がまさかのさらわれてしまって、なかなかとんでもない状況ですが、ワクワク楽しく読み進んでいただけるよう

一生懸命執筆させていただきますので、ぜひお付き合いください!


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