二つの風(後編)
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇぇぇッ!!」
フラッシュバックした記憶の痛みを塗り潰すように、黒き風の細い喉から、血を吐くような絶叫が迸った。
紫黒の魔力が暴威となって中枢の天井を抉り取り、巨大なコンクリート塊が豪雨のように二人へ降り注ぐ。
両腕を振り抜くたび、不可視の衝撃波が大気を悲鳴混じりに軋ませ、足元の床を微塵に砕き割っていく。
純粋な出力においてノアの通常限界を凌駕するようにチューニングされた殺人兵器。
その全開の魔力は、以前の中枢でノアとノワールを完敗へ追い込んだ時と同じ、理不尽極まる暴力そのものだった。
ドガァァァァァンッ!!
「ぐ、ぅ……っ!?」
防御の気流を貫通した黒い風の礫が、ノアの二の腕と脇腹を鋭く裂いた。鮮血が舞い、白銀の髪を赤く濡らす。
「ノアちゃんッ!」
「大丈夫……っ、まだ、倒れるわけにはいかない……!」
膝を折りかけながらも、ノアは翡翠の瞳を力強く上げた。
傷口を庇うノアの背中に、リノが素早く手を添える。温かな治癒の魔力が傷を塞ぐが、敵の攻撃速度はその回復すら追いつかない。
「あははははっ! ほら、また守りに入ってボロボロじゃん! アンタの甘っちょろい風なんか、アタシの憎悪でいくらでも叩き潰せるんだよぉッ!!」
黒き風が嘲笑を叩きつける。
だが、その歪んだ笑みの奥底で、少女の肩は小刻みに震えていた。
全速力で放たれる自らの真空刃。それが、先ほどからノアの周囲を旋回する微細な気流によって、ミリ単位で軌道を狂わされている。
(なんで……!? アタシのほうが速い! 重い! なんで直撃で両断できないのよッ!?)
かつてのノアであれば力負けしていた。
だが、今のノアの背中には、リノがいる。
リノの治癒魔力がノアの神経網を極限まで活性化させ、研ぎ澄まされた『魔力調律』が、荒れ狂う黒嵐の歪みを完璧に読み解き、いなし続けているのだ。
「壊れろ、壊れろ、壊れろぉぉッ!!」
苛立ちに狂った黒き風は、自らの魔力回路が焼き切れるのも構わず、過剰な負荷をかけて黒風を撒き散らした。
皮膚の隙間から紫黒の蒸気が噴き出し、火花が散る。自傷行為に等しい暴走。
その姿は、傲慢な強者などでは決してなかった。
追いつめられ、自らの存在意義を証明するために、壊れかけの体を引きずってもがく――あまりにも痛ましい子供の姿だった。
「はぁっ、はぁっ……!」
肩を激しく上下させ、口元から血の泡を吹きながら、黒き風は狂気の笑みを崩さなかった。
全身の血管が紫色に浮き上がり、自滅への秒読みが始まっている。
「アタシはアンタを殺すために生まれたの! 壊すために造られたの! それができないなら……アタシは何のために生まれてきたのよッ!! 役立たずのお人形に同情なんてしてんじゃないわよッ!! そうじゃなきゃ……アタシが生きてきた意味が、どこにもなくなっちゃうじゃないッ!!」
血を吐くような慟哭。
それは悪党の台詞ではない。
「役に立たなければ存在を許されない」という呪縛に怯え続ける、孤独な悲鳴そのものだった。
その欺瞞を、眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに見据えたリノが、割れんばかりの声で打ち砕いた。
「――ふざけるなっす!!」
リノの怒号が、中枢の轟音を貫いた。
「何が『殺すために生まれた』っすか! 何が『役目』っすか! 勝手な大人の都合で造られた呪縛を、あたかも自分の生きる理由みたいに大事そうに抱え込んで……本当は誰よりも怖がってるだけじゃないっすか!! 誰かに作られた役目に縋らなきゃ、自分が消えちゃうのが怖かったんでしょ!? 一人で暗闇に閉じ込められて、痛くて、寂しくて……誰にも見てもらえないのが嫌だったんでしょッ!!」
「な……ッ!?」
魂の急所を抉られ、黒き風の呼吸が止まる。
その動揺の前に、今度はノアが一歩前へ踏み出した。
かつてアルトとして「お荷物の囮」と切り捨てられ、自分の存在意義を見失い、理不尽に耐え続けていた過去のすべてを背負って。
「君の言う『本物』って、誰かを傷つけることなの!?」
ノアの澄んだ凛烈な声が響く。
「力を見せつけることでしか保てない存在理由なんて、それこそ脆くて哀しい偽物だよ! 他人を破壊しなければ立っていられないなら、君が誇るその力は……ただの呪いだ!!」
「うるさい、うるさいッ! アタシはアンタより強い! 強い奴が本物なんだよッ!!」
「違う! 風は誰かを殺すための刃じゃない! 巡り、繋ぎ、すべての命を生かすための呼吸なんだ!!」
ノアはリノの手を強く握りしめた。
二人の魂が、一切の躊躇なく完全に重なり合う。
『――霊装合一【翠嵐風装】』
キィィィィィィィン――ッッ!!!
空間を清らかに塗り替える神聖な共鳴音とともに、翡翠の神衣と純白の羽衣が顕現した。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
黒き風が全存在を賭けて放った、部屋全体を巻き込む超圧縮黒嵐球。
だが、リノは微動だにしなかった。
その双眸に、精霊としての絶対の権能――『大気統律』の神威が宿る。
「――返してっす。リノたちの風を」
リノが右手をかざした瞬間、衝突すら起きなかった。
黒き風が放ったはずの嵐が、リノとノアの合一された神気に触れた瞬間、ピタリと牙を収めたのだ。
接続していた気流の魔力線が、その圧倒的な『統律』によって一本残らず上書きされ、掌握されていく。
「アタシの……風が……言うことを、聞かない……!?」
「風の全権は、リノたちが預かるっすよ!」
ノアの指先が軽く宙を撫でると同時に、少女を取り巻いていた黒い竜巻が、音もなく霧散した。
大気中からすべての敵性魔力が消滅し、中枢を満たしていた暴風が、ただの穏やかなそよ風へと完全に還元される。
完全なる無力化。
「あ……あぁ……」
武器を奪われ、誇りをもぎ取られた少女が、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。




