二つの風(中編)
半壊した結界維持装置――吹き荒れる紫黒の暴風の中、ノアが叫んだ魂の言葉。
その叫びが、黒き風の鼓膜を震わせた瞬間。
少女の脳裏に、分厚い氷の底に沈めていたはずの、忌まわしき記憶の濁流が一気に逆流した。
――記憶の始まりは、どこまでも冷たく、濁った培養液の底だった。
ピピピ、と無機質に鳴り響くバイタル音。
硝子槽の向こう側で交わされる、感情を欠いた白衣の大人たちの声。
『被検体07、神経パルス接続完了。……生体魔力波長、目標の82%をトレース』
『魔導増幅薬の第四次投与を開始しろ。筋繊維の崩壊速度に対し、精霊核の自己修復を無理やり間に合わせろ』
少女の華奢な四肢には、幾十本もの魔導ニードルとチューブが突き刺さっていた。
痛覚を麻痺させる薬品が流し込まれるたび、全身の細胞が焼け爛れるような激痛に痙攣する。
けれど、苦痛に泣き叫ぼうとも、声帯からは泡しか零れ落ちない。
少女には、名前がなかった。
誰も彼女を名前で呼ばなかった。
『被検体07』。
『複製体』。
『対精霊兵器・試作七号』。
時折、硝子槽の前に立つ男たちがいた。
企業連合のスーツを着た役員、あるいは翠光教の狂信者たち。
彼らは一様に、硝子槽の中の少女を見つめていた。
だが――その瞳が見つめていたのは、そこに浮かぶ少女自身では決してなかった。
『これが……あの【翡翠の風】か』
『素晴らしい。あの風の精霊のデータを完全に落とし込んである』
『これさえあれば、あの神の威光を我らの意のままにできる』
彼らが見ていたのは、少女の背後に透けて見える【ノア】という存在だけだった。
世界樹の最深部で微笑む、汚れなき神話の風。
人々に愛され、崇められ、光を浴びて咲き誇る、たったひとつの本物。
少女はその影だった。
本物を真似るために細胞を弄ばれ、本物を殺すためだけに神経を焼き切られ、過剰なドーピングと改造を施され続ける、ただの器。
実験、実験、実験。
槽から出された日は、必ず血を吐く日だった。
模擬戦用のダンジョン深層モンスターと檻の中に放り込まれ、息が絶えかけるまで戦わされる。
風を操り、モンスターの首を刎ね、全身を血と泥で濡らして立ち尽くす少女に、大人たちが投げかけるのは労いの言葉などではなかった。
『出力が足りん。オリジナルなら、今の突風を無詠唱で三倍の範囲に広げている』
『もっと薬を打て。感情など不要だ。オリジナルの風を上から押し潰すだけの殺傷力を持たせろ』
『使えなくなれば処分するだけだ』
少女は冷たいコンクリートの床にうずくまり、自らの小さな手を抱きしめて震えていた。
(アタシは……なに?)
鏡を見れば、そこに映るのは、あの銀髪の少女と同じ顔。
けれど、髪は黒に染まり、瞳は血のように赤く焼けている。
同じ顔をしているのに、向こうは「愛される神」で、こちらは「使い捨ての人形」。
少女の胸の奥で、どす黒い怨嗟と、凍えるような恐怖が渦を巻いて膨れ上がっていった。
(アタシは……あいつの身代わりじゃない)
(アタシは……壊すためだけに造られたんじゃない……!)
けれど、その叫びを打ち消すように、自らの存在理由は「あいつの破壊」以外に与えられていなかった。
オリジナルを殺せなければ、自分は存在する価値が1ミリもない。
ただの失敗作として、暗い焼却炉の底へ投げ込まれて終わるだけ。
だから、少女は笑うことにした。
嘲笑い、踏みにじり、すべてを壊すことでしか、己の存在を世界に刻みつける術を知らなかったから。
『アタシが本物だ』
『アタシのほうが、あの生ぬるいオリジナルよりずっと強い』
そう叫び続けなければ、心臓が恐怖で凍りついて止まってしまいそうだった。
そして――前線へと駆り出された。
都市の結界を破り、大人たちを薙ぎ払い、ついに中枢で対峙したあの時。
目の前に現れたノアは、傷だらけになりながら、自分に向かって優しく、悲しそうな目を向けたのだ。
(なんで……なんでそんな目で見るのよ……!?)
憎んでほしかった。
恐れてほしかった。
自分を「敵」として、命を奪い合う「対等な存在」として認めてほしかった。
それなのに、あの少女の瞳は――まるで迷子の子供を抱きしめるかのように、ただ痛ましげに揺れていた。
(憐れむな……! アタシを見るな……ッ! アタシを通して、あの綺麗な風を見るなァッ!!)
少女の魂の底から、血を吐くような無音の絶叫が木霊していた。




