抱擁
夜々の叫びに応じるように、少女の魂の最奥から、底知れぬ重力波のような闇が溢れ出した。
ドクンッ……!
ノワールの心臓が激しく跳ね上がる。
かつて黒樹林で垣間見た、あの果てしない闇。
恐ろしくて、広大で、けれどどこまでも静謐な「飲み込む器」。
「……へっ。馬鹿野郎」
ノワールの口元に、自嘲と、誇らしげな笑みが浮かんだ。
そうだ。闇とは、他者を切り裂くための爪牙ではない。
傷つき、暴れ、行き場を失ったすべての哀しみも怒りも――音もなく飲み干し、安らぎへと還すための揺籠。
「命を使い切るだの、二度と口にするんじゃねえ。……お前が全部飲み干すなら、俺がお前の底を支えてやる!」
ノワールが漆黒の奔流と化し、夜々の背中から大盾の裏面へと飛び込んだ。
今度は弾かれない。
夜々の底知れぬ深淵と、ノワールの大精霊としての神気が、寸分の狂いもなく完全に噛み合っていく。
『――霊装合一【冥盾闇装】』
ズズズズズズズズッ……!!
光を呑み込む、絶対的な闇の波動が通路を満たした。
夜々の全身を包むのは、夜の帳そのものを織り上げたような重厚な漆黒の法衣。
そしてその手にある大盾は、すべての光を吸い込んで反射すら許さない、深淵の大盾へと昇華していた。
ジュルリ……。
異変を察知したのか、数百の分身体たちが表情のない顔を一斉に歪ませ、通路全体を埋め尽くす黒い津波となって殺到した。
音すらない。ただ通路の壁や天井を削りながら、夜々と大盾を押し潰さんと殺到する悪意の奔流。
だが――夜々は一歩も退かなかった。
大盾の石突を、床へトンと静かに落とす。
「――みんなおいで」
その穏やかな囁きとともに、大盾の中心に『虚無の穴』が開いた。
ズオォォォォォォォッッ……!
接触した瞬間、破壊の轟音など響かなかった。
殺到した瘴気の巨腕も、無数に這い寄る泥人形たちも、大盾の表面に触れた端から、まるで水面に落ちた墨汁のように輪郭を失い、大盾の奥底へと吸い込まれていく。
どんな質量も、どんな呪詛も、夜々の魂が抱える「深淵の海」にとっては、波紋の一つにすらならない。
軋むことも、弾かれることもない。
夜々はただ、穏やかな瞳で大盾を支え続けていた。
他人の悪意を一身に呑み込んできた彼女の魂が、今、愛する者たちの盾となって、世界樹を脅かす濁流をすべてその身に抱き留めている。
「夜々の大盾は……みんなの想いを、ぜんぶ受け止める盾ですぅ……!」
大盾が淡く脈打ち、吸い込んだ膨大な瘴気を、害のない純粋な引力波へと変換して解放する。
『冥界開門・深淵の抱擁』――ッ!!
通路の奥深くまで広がった漆黒の光輪が、逃げ場のない分身体たちを残らず優しく包み込み、そのまま静寂の底へと引きずり込んで消滅させた。
すうっ、と。
通路を埋め尽くしていた瘴気の気配が、嘘のように掻き消えた。
壁に残る粘液も、床の泥も、チリひとつ残っていない。
ただ、冷たい風が通り抜けるだけの、清らかな静寂が戻っていた。
「……ふぅ……っ」
夜々の大盾から黒い光が引き、元の姿へと戻る。
へにゃりと膝をつきそうになった夜々の肩を、実体化したノワールが咄嗟に支えた。
「おい、大丈夫か」
「えへへ……足が、ちょっとプルプルしてますぅ……」
夜々は息を荒らげながらも、いつもの呑気で柔らかな笑顔を浮かべた。
ノワールは呆れたように息を吐き、それからフッと口元を緩める。
「……上出来だ。その……少し見直したぜ」
「本当ですかぁ……! えへへ、夜々、お役に立てました……!」
二人の背後――結界中枢の巨大な隔壁の向こう側から、いよいよ臨界点へと達しようとする、翡翠と漆黒の風の咆哮が響き渡る。
「ノア先輩、リノ先輩……」
「ああ。……外の邪魔者は全部片付けた。あとは、あいつらに任せるしかねえ」
二人が命懸けで守り抜いた一本の道の先。
物語の焦点は、いよいよ結界中枢――ノアとリノ、そして哀しき複製体『黒き風』との最終決戦へと集束していく。




