すべてを飲み込む少女の器
半壊した結界中枢へと至る、巨大な外郭防護通路。
重厚な隔壁の向こう側からは、ノアとリノ、そして『黒き風』が激突する凄まじい大嵐の衝撃が、重い地響きとなって絶え間なく伝わってきていた。
そして――その頑丈な扉の前を、底知れぬ「静寂の怪異」が埋め尽くしていた。
ゴボッ……ジュルリ……。
黒き風が己の膨大な魔力と破壊衝動から吐き出した、数十、数百に及ぶ瘴気の分身体。
それは言葉を発しない。喚き散らすことすらない。
ただ人の形を歪に真似た泥人形のような黒い塊が、関節の定まらない手足をギチギチと軋ませ、油のような粘液を滴らせながら、無表情に、無機質に、中枢の扉へ向けて押し寄せてくる。
光を吸い込むような無数の虚ろな眼窩が、ただ獲物を圧し潰すことだけを目的に蠢いている。その無言の悪意こそが、背筋を凍らせるほどの寒気を放っていた。
「――させませんっ!!」
ドゴォォォォォォンッッ!!!
通路のど真ん中、アスファルトを割る勢いで突き立てられたのは、身の丈ほどの漆黒の大盾だった。
盾の前面から放たれた衝撃波が、先頭の分身体数体を力任せに弾き飛ばす。泥のように砕け散った肉塊が、瞬く間に床を這い、再び元の異形へと再構築されて立ち上がった。
「はぁっ、はぁっ……!」
盾の裏で、影守夜々は両腕を小刻みに震わせながら息を乱していた。
百八十センチを超える大柄な体躯を極限まで低く沈め、歯を食いしばって全身の体重を大盾へと預けている。
だが、次から次へと無音で押し寄せる瘴気の波は、大盾の金属面を激しく叩き、削り、夜々の腕の骨を容赦なく軋ませていた。
「おい、夜々! 力で押し返そうとするなと言っただろ!」
その真横。
紫黒のオーラを全身から滾らせ、両手を鋭利な闇の刃に変形させたノワールが、音もなく飛びかかってきた分身体を無言で両断しながら鋭く叫んだ。
「ひゃぅっ……! で、でも、押し返さないと、ノア先輩たちの扉がぁ……!」
「馬鹿野郎! お前が潰れたら元も子もねえんだよ!」
ノワールが舌打ちとともに地を蹴り、宙を舞う三体の怪異を黒い軌跡となって切り裂く。
だが、敵の数は減らない。
叫びも痛みも持たない分身体たちは、首を跳ね飛ばされようが胴を両断されようが、表情一つ変えずに傷口を泥で塞ぎ、無言のまま距離を詰めてくる。
中枢内部から溢れ出す黒き風の魔力が尽きない限り、無限に湧き出し続ける殺戮の泥人形。
ゾルリ……。
背後の死角から、十数体の分身体が一斉に融合し、五メートルを超える巨大な黒い腕塊となって鎌首をもたげた。
咆哮すらない。ただ質量と殺意だけを乗せた凶悪な黒腕が、頭上から夜々の大盾へと振り下ろされた。
ズガァァァァァァンッッ!!!
「きゃああああっ!?」
強烈な質量に耐えきれず、夜々の足元のアスファルトが二筋の溝となって削れ、身体が数メートル後退する。
手袋が裂け、手の平から鮮血が滲み出た。
「夜々ッ!」
ノワールが駆け寄ろうとした瞬間、足元のアスファルトから生え出た無数の泥の触手がノワールの四肢へと絡みつき、地面へと縫い留める。
「ちぃっ……離せッ!」
巨腕の指先が、盾を弾き飛ばされかけた夜々の無防備な胸元へ向けて、無音のまま振り下ろされる。
逃げ場はない。
(……夜々は、昔から……)
迫る死の切っ先を前に、夜々の脳裏を去来したのは、かつて嘲笑され続けてきた自分自身の過去だった。
――同年代の女の子たちよりも、頭ひとつ以上大きすぎる体躯。
手足は不器用で、走ればいつもビリ。
大人の顔色を窺ってはオドオドと縮こまり、親族からも「愚図」「のろま」「図体ばかりで何の役にも立たない」と白い目で見られていた幼少期。
探索者学園に入学してからも、何も変わらなかった。
誰かを守りたいと願って選んだはずの重騎士の道。
だが、自分に宿っていた適性は、人々に気味悪がられる忌まわしき『闇属性』。
重すぎる大盾の魔力に振り回され、自重を支えられずに通路の隅で下敷きになって泣いていたあの日。
『図体だけデカくて盾もまともに構えられないのに、重騎士志望とか笑えるよな』
『しかも適性が闇属性だろ? タンクのくせに気味悪がられてパーティ組めないらしいぜ』
心無い嘲笑を投げかけられ、涙をこぼしながら小さく丸まっていたあの惨めな自分。
――けれど。
『だ、大丈夫……?』
あの日、温かな風とともに駆け寄り、大盾にそっと手を添えてくれた小柄な少女がいた。
誰もが見向きもしなかった自分の盾を整え、「ほら、一緒に持ってみて」と優しく微笑んでくれたノア先輩。
野次馬を追い払い、名前を聞いてくれたリノ先輩。
「夜々ちゃんのおにぎり、すごく美味しいよ」と笑い合ってくれたお昼休み。
ドジで、愚図で、のろまで、何の役にも立たなかった自分に――初めて居場所をくれた人たち。
そのノア先輩が、世界を守るためにたった一人で傷だらけになりながら戦ってきたと知った時。
夜々の胸の奥底で、何かが決定的に変わったのだ。
(夜々は……もう、泣いて縮こまるだけの愚図じゃない……!)
ズシンッ!
夜々は両足を踏ん張り、血の滲む手で大盾のグリップを強く握り直した。
振り下ろされた黒腕を、大盾の縁で力づくで受け止める。
ガギィィィィンッ!!
「ぐ、ぅぅぅぅぅ……っ!!」
「夜々!?」
触手を引き千切ったノワールが目を見張る。
その少女の背中から、立ち上っていたのは――これまで見たこともないほど濃密な、けれど一切の濁りのない、静謐な漆黒の波動だった。
(……そうだ。あの時、感じた違和感……!)
黒樹林の特訓の夜、ノワールが夜々の魂に触れた時に感じた、底知れぬ戦慄。
なぜ、この不器用で普通の少女が、大精霊の闇の魔力を流し込まれても魔力酔いひとつ起こさなかったのか。
なぜ、流し込んだ闇が、泥沼に落ちた水滴のように消え去ったのか。
――器の形が、違っていたのだ。
他の人間のように、攻撃や放出のために魔力を巡らせる回路ではない。
他者の悪意、嘲笑、理不尽、痛み――幼い頃からあらゆるものを一身に浴びせられ、それを誰にもぶつけられずに心の奥底へと呑み込み続けてきた少女の魂。
その内側に広がっていたのは、あらゆる濁流を無底で受け止める、果てしない『深淵の海』そのものだった。
「……ノワールさん」
大盾を軋ませながら、夜々が静かに振り返った。
そのとろんとしていた瞳には、もう迷いも怯えも存在しない。
あるのは、愛する者たちのために命を使い切る覚悟。
「夜々の命も、力も……全部、使ってくださいですぅ」
「……お前、何を言って――」
「夜々は、足も遅くて、戦うこともできません。……でも! ノア先輩たちを傷つけようとするものなら……夜々の全部を使って、ぜーんぶ、心の底に沈めてみせますぅぅっ!!」
少女の魂が、カチリと音を立てて覚醒の扉を開いた。




