泥濘のなか、誇りの咲く場所
大気を焼き焦がす、紫黒の毒蛇の咆哮。
急降下する巨大な顎を前に、ショーウィンドウの瓦礫に身を沈めていたクラリスは、泥のついた手で強く地面を押し返していた。
「あははははっ! 泥まみれでお人形遊びはおしまいですわ、ローゼンバーグのお嬢様!」
ビルの屋上から響くヴィヴィアンの嘲笑。
だが、その眼下で――クラリスの全身から、ゆらりと黄金混じりの真紅の熱気が立ち昇った。
ドォォォォンッ!!
直撃の寸前、クラリスを中心に噴き上がった円柱状の紅蓮の熱波が、迫り来る毒蛇の顎を真っ向から蒸発させた。
吹き荒れる突風が、焼け焦げた特注ローブの裾を激しく打ち据える。
「……なっ!?」
ヴィヴィアンの扇子が止まり、その妖艶な相好が戦慄に引きつった。
立ち上る白煙の中。
額から血を流し、煤でドレスを汚しながらも、クラリスは背筋を凛と伸ばして立ち上がっていた。
その双眸に宿る碧は、もはや冷たい大理石の屋敷で怯えていた少女のものではない。
魂の底から燃え盛る、烈火の輝き。
「……ええ、貴女の言う通りですわ」
静かに、けれど通る声が灰色の商業区に響き渡る。
「わたくしは守られて育ちました。名門の娘として、勝者であれと敷かれたレールの上を歩んできましたわ。……ですが」
クラリスは手にした魔導杖を、正面高くへと掲げた。
「父の教えだから戦っているのではありません。一族の体裁のために、ここに立っているのでもありませんわ!」
『――へっ! それでこそ大精霊様が見込んだ女だぜ、クラリス!!』
胸元の真紅の勾玉が、太陽のごとき眩い光条を放つ。
イグニスの荒々しく猛々しい魂が、クラリスの血潮と完全に溶け合っていく。
「誰かを守るために泥を啜ることが、どうして醜いと言えましょう! 傷つき、足掻き、それでも誰かのために立ち上がる……その熱さこそが、わたくしの信じる気高さですわ!!」
叫びとともに、クラリスの全身の魔力回路が限界を突き破って解放された。
『――霊装合一【紅蓮炎装】』
ゴォォォォォォォォッッ!!!
火柱が天を衝いた。
暗雲を赤く染め上げるほどの光の中から現れたのは、業火の揺らめきそのものを織り上げたような真紅の戦装束を纏うクラリスの姿だった。
手にした魔導杖は姿を変え、先端に純粋な熱量の結晶たる巨大な魔法球を宿した、杖へと昇華している。
「精霊との完全融合……!? 没落の恐怖も知らない小娘が、調子に乗るんじゃありませんわッ!」
ヴィヴィアンが狂乱のままに扇子を振り抜く。
操られた信徒たちの足元から、紫の毒炎が幾重にも立ち上り、クラリスの全方位を取り囲んだ。
信徒を盾にしながら、逃げ場のない毒熱波で広域ごと焼き尽くす悪辣極まる飽和攻撃。
だが、クラリスは微動だにしなかった。
槍を構え、その切っ先をヴィヴィアンただ一点へと絞り込む。
(信徒たちには、火の粉一つ触れさせません……!)
イグニスの爆発的な劫火を、針の穴を通すような極限の集中力で、杖の切っ先へと凝縮していく。
広範囲を焼き払うための炎ではない。
悪意のみを刺し貫く、一点突破の超高密度熱量。
「焼き尽くしなさい――魔導奥義!」
クラリスの碧眼が閃いた。
『赫焉の断罪槍』――ッ!!
放たれたのは、深紅と黄金が混ざり合う、一筋の絶対的な閃光だった。
周囲を取り囲んでいた毒炎の壁を、その熱線は一瞬で貫通した。
信徒たちの衣服の裾一つ焦がすことなく、彼らの間隙を寸分の狂いもなく縫い抜けた光条が、屋上に立つヴィヴィアンの扇子ごと、その魔力障壁を粉微塵に撃ち抜く。
ズドォォォォォォンッッ!!!
「ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
扇子型の魔導具が弾け飛び、ヴィヴィアンの身体が高架のコンクリート壁へと吹き飛ばされた。
魔力回路を根こそぎ蒸発させられた衝撃で、ヴィヴィアンは壁にめり込み、そのままぐったりと崩れ落ちる。
手足を痙攣させ、扇子の破片が散らばる瓦礫の上で、完全に意識を失った。
信徒たちを操っていた紫の煙が急速に晴れ、足元に倒れていた人々が正気を取り戻したように呻き声を上げ始める。
「……はぁ、はぁ……」
クラリスが杖を引くと、身体を包んでいた紅蓮の霊装が静かに光の粒子となってほどけ、元のローブへと戻った。
煤にまみれた頬を手の甲で拭い、クラリスは静かに息を整える。
『へっ、やりゃあできるじゃねえか、クラリス!』
「……ええ。貴女の炎があったからこそですわ、イグニス」
心の中で相棒と拳を合わせるように呟き、クラリスは商業区の惨状を見渡した。
そこへ、マリンのドローン誘導を受けた学園警備隊が駆け込んでくる。
「ローゼンバーグ様! ご無事ですか!?」
「わたくしは平気です。……倒れている信徒の方々の手当てを急ぎなさい。毒の熱傷を負っている者がいます」
「は、はいっ!」
毅然と指示を飛ばすその横顔には、かつて名門の看板に縛られ、泥を恐れていた令嬢の影はどこにもなかった。
泥濘の中に咲き誇る、一輪の誇り高き薔薇。
クラリスは踵を返し、空を見上げる。
結界中枢の塔の上空――未だに猛威を振るう、あの黒き竜巻の方向を。
「……わたくしにできる役目は果たしましたわ。ノアさん、リノさん……あとは、頼みましたわよ」
第二の敵幹部は堕ちた。
だが、学園都市を揺るがす戦火は、さらに激しさを増して燃え広がっていた。




