泥濘の薔薇
学園都市中央大通り――かつて多くの人々で賑わっていた商業区は、今や毒々しい紫煙と火の海に包まれていた。
ショーウィンドウの強化ガラスが粉々に砕け散り、焦げたアスファルトの上に無数の瓦礫が転がっている。
逃げ遅れた一般市民や商業区の警備員たちが建物の陰に蹲る中、その退路を塞ぐようにして、数十人の暴徒――狂暴化薬で理性を奪われた翠光教の信徒たちが、虚ろな赤黒い目をぎらつかせて武器を構えていた。
「オホホホホッ! 燃えなさい、もっと苦しみもがいて踊りなさいな!」
商業ビルのテラス。
真紅のゴシックドレスの裾を揺らし、扇子型の魔導具から紫の毒煙を立ち昇らせているのは、『緋毒の令嬢』ヴィヴィアン・ラ・セール。
その扇が一振りされるたび、大気を侵食する猛毒の紫炎が雨のように地上へ降り注ぐ。
「きゃあぁぁっ!?」
「だ、誰か……助けてくれッ!」
逃げ場を失った市民たちへ、紫炎の奔流が牙を剥いた――その刹那。
ゴォォォォォッッ!!
真横から突如として割り込んできた、目映い紅蓮の爆炎が、降り注ぐ毒煙を力づくで上空へと吹き飛ばした。
吹き荒れる熱風の中、ビルのテラスへふわりと軽やかに舞い降りてきたのは、緋色の魔導ローブを優雅に翻す金髪の美少女――クラリス・フォン・ローゼンバーグ。
「――そこまでですわ、無粋な毒婦!」
クラリスは手にした豪奢な魔導杖の石突をアスファルトへと打ち鳴らし、凛とした碧眼でヴィヴィアンを射抜いた。
背後で震える市民たちへ、視線を向けぬまま涼やかに告げる。
「お怪我はありませんこと? ここはわたくしが引き受けます。今のうちに地下シェルターへ避難なさい!」
「あ、ありがとうございます、ローゼンバーグ様……!」
蜘蛛の子を散らすように逃げていく市民たちを見届け、クラリスは再び杖を構え直した。
ヴィヴィアンは、扇子で口元を隠しながら、ねっとりとした蔑みの視線をクラリスへ向ける。
「あら……? 名門ローゼンバーグ家の御令嬢が、単身でこんな泥臭い前線へお出ましですの? お父上や一族の庇護がなければ、お茶会で紅茶の味を品定めすることしかできない温室のお人形さんが」
「戯言を。……罪なき人々を巻き込み、街を毒で汚す下劣な輩に、名門の誇りを語る資格などありませんわ」
「誇り? ふふ、お可哀想に」
ヴィヴィアンの瞳が、底知れぬ狂気と怨嗟に歪んだ。
「家柄、血統、伝統……そんな下らない首輪に縛られて、敷かれたレールの上で着飾っているだけの子供が、何を知った風な口を利きますの?」
「……私もかつてはそうでした。名門の娘として全てを捧げ、ですが一族が没落した瞬間、ゴミのように切り捨てられた! 誇りなどという呪縛で、パンの一つでも買えて!?」
バッと扇子が開かれる。
次の瞬間、ヴィヴィアンの合図とともに、薬で狂暴化させられた信徒たちが一斉に咆哮を上げ、クラリスへ向けて雪崩れ込んできた。
「さぁ! そのお高くとまったお人形を、泥まみれに引きずり下ろしなさい!」
「くっ……!?」
クラリスの眉が跳ね上がる。
信徒たちの動きは完全に理性を失っているが、その肉体には黒き風から分け与えられた禍々しい魔力が巡り、人間離れした膂力で四方から殺到してくる。
だが、彼らは操られているだけの被害者。殺傷魔術を撃ち込むわけにはいかない。
「『紅炎の障壁』――ッ!」
クラリスは杖を振るい、信徒たちの足元へ熱の壁を立ち昇らせて足止めを図る。
しかし――その障壁の頭上から、ヴィヴィアンの凶悪な術式が降り注いだ。
「信徒ごと消し炭になりなさいな! 『蝕毒の紫炎嵐』ッ!!」
ドォォォォンッ!!
信徒たちの頭越しに放たれた、毒と炎の巨大な螺旋。
クラリスは障壁を維持しながら、信徒たちを巻き込まぬよう身を挺してその直撃を横から受ける形となった。
バァァァンッ!!
「きゃああっ……!?」
激しい爆風に吹き飛ばされ、クラリスの身体が商業ビルのショーウィンドウへと叩きつけられた。
砕け散るガラス。
自慢の特注ローブが毒の熱線で焼け焦げ、剥き出しになった白い肌から鮮血と煤が滲み出る。
「が……っ、ゴホッ……!」
「ほら、どうしまして? 自慢の魔術で私を焼き尽くせばよろしくてよ! ……まあ、それをすれば、盾になっているこの愚民どももまとめて丸焦げになってしまいますけれど!」
ヴィヴィアンの嘲笑が、商業区の空に反響する。
瓦礫に手をつき、クラリスは荒い息を吐きながら立ち上がろうとするが、傷口から侵入した微量の痺れ毒が、足の自由を奪っていた。
(身体が……重い……!?)
目の前には、刃物を構えて詰め寄ってくる信徒の群れ。
そして、次なる極大の毒炎を練り上げるヴィヴィアン。
「家柄という首輪を誇らしげに見せびらかし、泥にまみれる覚悟もないお嬢様。……貴女のその綺麗事のプライドごと、ここで無様に燃え尽きなさい!」
ヴィヴィアンの放った毒炎が、暗雲を貫くほどに巨大な蛇となって鎌首をもたげた。
逃げ場はない。信徒を巻き込まずに相殺できる範囲魔法など、この距離では存在しない。
(わたくしは……また……)
煤で汚れたアスファルトを見つめながら、クラリスの意識は、幼い日の記憶の底へと引きずり戻されていた。
――燦然と輝くシャンデリア。冷たい大理石の床。
歴代の名選手や高名な探索者の肖像画がずらりと並ぶ、ローゼンバーグ邸の広大な稽古場。
『――背筋を伸ばしなさい、クラリス』
幼いクラリスの耳元に響いていたのは、厳格な父の冷徹な声音だった。
『我がローゼンバーグの名は、常に完全無欠の勝者にのみ許される。泥を啜って勝つなど三流のすることだ。立ち居振る舞いから魔術の行使に至るまで、優雅に、格式高く、誰よりも気高くトップに君臨しなさい』
『負けは許されない。醜態を晒すことなど、この一族の恥だと思え』
幼い指先が火傷で爛れようと、涙を零すことは禁じられた。
ドレスを汚すことは罪であり、泥臭く足掻くことは「はしたない」と切り捨てられた。
常に完璧な令嬢として、敷かれたレールの上で誰よりも気品ある勝者であれと義務付けられ続けた日々。
(……わたくしは、ずっと……)
けれど、現実は無情だった。
同世代には神薙氷華という超えられない天才が君臨し、やがて目の前に現れたノアという規格外の存在。
どれだけ背伸びをしても届かない差に苛立ち、名門の看板に押し潰されそうになりながら、その実――自分は「名門の娘」という綺麗で安全な殻に閉じこもり、泥まみれになって必死に抗うことを恐れていただけだったのではないか。
「お人形の最後ですわ! 死になさい!」
ヴィヴィアンの毒炎が、大気を焼き焦がしながら急降下してくる。
迫る紫の顎。
信徒たちを巻き込めず、魔法も撃てず、泥に汚れたドレスのまま、無様に蹲る自分――。
(ああ……ヴィヴィアンの言う通り、わたくしはただの……お人形……?)
絶体絶命の闇が、クラリスの視界を覆い尽くそうとした、その時だった。
『――おいおい、何情けねえツラして縮こまってやがんだ、クラリス!』
胸元に宿る真紅の勾玉から、パチリと弾けるような熱い火花が散った。
(……イグニス……?)
『泥にまみれたら品格が落ちるだと? 他人のためにボロボロになって戦うのが恥ずかしいことかよ! てめえの胸の奥で煮えたぎってる炎は……そんな安っぽいもんじゃねえだろッ!!』
脳裏に蘇る、あの灼熱の第58層。
お上品な体裁を脱ぎ捨て、「大切な仲間も、この街も、絶対に失わせはしない」と喉が裂けるほど叫んだ、あの日の自分の声。
そして――ボロボロになりながらも仲間を守り抜いたノアの、あの泥だらけの温もり。
(……そうだわ)
クラリスの唇が、震えを止めた。
血の滲む拳が、アスファルトを強く打ち据える。
(誰が決めたのです? 泥を啜ることが恥ずかしいなどと。……誰かのために立ち上がり、泥にまみれて抗うことの、一体どこが醜いというのですか……!)
胸の奥で、氷のように冷え切っていた血が、一瞬にして沸点を超えて滾り始めた。
父の言葉でもない。一族の体裁でもない。
自分自身の魂が、激しく火柱を上げて咆哮している。
――迫る紫炎の直前、クラリスの碧眼が、爛々たる紅蓮の闘志を宿して見開かれた。




