台風の目
迫り来る巨大な影。
腐敗した毒羽を撒き散らし、空間ごと圧殺するような勢いで振り下ろされる怪鳥の鋭利なかぎづめ。
その死線の前に、華奢な身体を両腕ごと広げて立ちはだかるリノ。
怯えはない。
メガネの奥にある茶色の瞳には、ただ真っ直ぐにノアを受け止めるための覚悟だけが燃えていた。
『リノを信じて飛び込んでこいっ、ノアちゃん!!』
その叫びが、ノアの魂の底へと突き刺さった。
(――ああ、そうか)
視界が、ゆっくりとスローモーションに沈んでいく。
アルトだった頃、誰にも信じてもらえず、ただ使い捨てられるのが怖くて――ノアになってからも、失うのが怖くて、ずっと一人で背負い込もうとしていた。
けれど、目の前の少女は逃げなかった。
世界樹の精霊なんかじゃない、ただの不器用で臆病な自分を、親友としてまるごと抱きしめようとしてくれている。
(信じるよ、リノちゃん……!)
ノアは大地を強く蹴った。
その身体が、まばゆい白銀と翡翠の燐光へとほどけていく。
ためらいは、もうない。
広げられたリノの胸元へ――その温かな魂の中心へと、吸い込まれるように飛び込んだ。
ドクンッ……!
二人の魂が、境界線を失って溶け合う。
ノアの莫大な霊力がリノの体内を満たし、同時に、リノの抱える柔らかで温かい治癒の波長が、ノアの荒ぶる風を優しく包み込んでいく。
(あったかい……っ! これが、ノアちゃんの……!)
(リノちゃん……僕の風を……!)
心の中で、互いの声がダイレクトに響き合う。
リノの身体を核として、ふたりの意志が完全に重なり合った。
『――霊装合一!!』
カァァァァァッッ!!
怪鳥のかぎづめがリノの頭上数センチに達した、その瞬間。
天空を切り裂くようなエメラルドの光柱が、リノを中心に爆発した。
ドオォォォォォォンッッ!!
突進してきた巨鳥が、まるで目に見えない巨大な鉄壁に激突したかのように、凄まじい衝撃波とともに弾き飛ばされた。
「グアァァァッ!?」
光が収まった尖塔の頂に、その姿はあった。
リノの制服は、新緑と白銀の神糸で織り上げられた優美な霊装へと変貌を遂げていた。
背後には翡翠色に輝く風の翼が幾重にも広がり、足元には大気の気流を司る巨大な幾何学模様の魔法陣が静かに展開されている。
そして――リノの胸の奥からは、ノアの清らかな神気が途切れることなく溢れ出していた。
「……すっごい。身体が、羽みたいに軽いっす……!」
リノが自らの手を見つめて息を呑む。
『リノちゃん、前を見て! 来るよ!』
リノの心の中から、ノアの澄んだ声が凛と響いた。
体勢を立て直した瘴気嵐竜が、怒狂したように咆哮を上げる。
翼を羽ばたかせ、全身の毒性瘴気を凝縮した数十発もの黒紫の暴風刃を、全方位から雨あられと撃ち放ってきた。
逃げ場のない、全方位からの飽和爆撃。
だが、リノは一歩も退かなかった。
メガネのブリッジをクイッと押し上げ、ニシャッと不敵に笑う。
「へへん、ノアちゃんの風はね……誰にも破らせないっすよ!」
リノが両手を前へと掲げ、大気へ優しく命じる。
その瞬間――展開されたのは、【台風の目】だった。
フッ……と、リノを中心とした半径十数メートルの空間から、一切の気流の乱れが消え去った。
完全なる静寂。完全なる無風。
その穏やかな円環の内側では、リノの治癒術がノアの風に乗って高速で循環し、呼吸するだけで疲労が抜け、傷が瞬時に塞がっていく「絶対平穏の聖域」が満ちていた。
そして――その聖域の「外周」は。
ゴオオオオオオオオオオッッ!!
外側を取り囲む境界線に、ノアの極限まで増幅された神速の暴風壁が立ち上がった。
吹き荒れるのは、近寄るものすべてを素粒子レベルで解体する真空の断層。
降り注いだ無数の毒刃は、聖域の外周に触れたコンマ数秒の間に、千や万を超える風の刃によってサイコロ状どころか塵芥へと微細に刻まれ、音もなく掻き消された。
怪鳥が絶句するように動きを止める。
一切の攻撃が届かない。平穏の中心を守るようにして、苛烈極まる嵐の壁が世界の境界を隔てていた。
『リノちゃん、今だよ……!』
『合点承知っす! いっけぇぇぇぇぇぇっ!!』
リノが右手を振り抜くと同時に、心の中のノアが呼応する。
聖域の外周を猛り狂っていた暴風壁が一気に収束し、巨大な翡翠の螺旋嵐となって天空へと吹き上がった。
逃げ場を失った怪鳥の巨体が、その暴風の渦へと巻き込まれる。
キシャアアアアッ――!!
断末魔の叫びとともに、暴風の刃が怪鳥を完全に包み込んだ。
肉体を切り刻むと同時に、風の奥に宿るリノの清浄な治癒の波長が、怪鳥を蝕んでいた腐敗の瘴気を一瞬にして浄化し、洗い流していく。
光の粒子となって、青空へと還っていく巨鳥。
尖塔を覆っていた暗雲は綺麗に吹き払われ、再びどこまでも突き抜けるような蒼穹が広がった。
――ふわり。
風が止み、リノの胸元から光が溢れ出ると、ぽんとノアが実体化して横に着地した。
霊装が解け、二人は元の制服姿に戻る。
「……はぁっ、……はぁっ……」
「……た、倒せ……たんすよね……?」
リノが恐る恐る見上げると、そこには抜けるような青空が広がっているだけだった。
沈黙。
そして――
「……やったぁぁぁぁぁっ!!」
「勝てたっすぅぅぅぅぅ!!」
二人は泥だらけのまま抱き合い、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
ノアの目からは、安堵の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
守れた。傷つけることも、焼き切ることもなく、二人で手を取り合って前へ進むことができたのだ。
「うひひ、見たっすかノアちゃん!? ウチら、最強のコンビっすよ!」
「うん……! ありがとう……!」
顔を見合わせ、笑い合う二人。
その瞳には、かつてのような気まずさも、正体への遠慮も、もう何一つ残っていなかった。
その時だった。
天蓋の尖塔の空間が微かに歪み、黄金の光とともに大精霊様の穏やかな声が響き渡った。
『――見事でしたよ、ノア、リノ』
二人が顔を上げると、最頂部へと続く転移陣が静かに輝き始めていた。
『他の子たちも皆、己が精霊との絆を結び、合一の理を掴み取りました。……残された刻限が、迫っています。行きなさい、世界樹の守護者たちよ』
視線を交わし、力強く頷き合うノアとリノ。
都市の完全崩壊まで、残り僅か。
仲間たちが待つ地上へ、そして学園都市の存亡を懸けた最終決戦の地へ向けて、二人は迷いのない足取りで光の陣へと飛び込んだ。




