本来のやさしさ
「……ノアちゃん、痛くないっすか?」
風が吹き荒れる天蓋の尖塔。
拒絶するように手を引っ込め、震えていたノアの前に、リノは静かに膝をついていた。
そして、戸惑うノアの手首を、逃がさないように両手でそっと包み込む。
「え……? リノ、ちゃん……?」
「『ヒール・ブリーズ』っす」
リノが小さく呟いた瞬間、ふわりと温かい若草色の風が二人の手を包み込んだ。
派手な光膜も、劇的な魔力のうねりもない。
けれど――中枢での激闘で酷使され、表面上は塞がっていたはずのノアの腕の筋繊維、その奥深くに残っていた微細な魔力焼けの痛みが、じんわりと溶けるように引いていく。
「あ……」
ノアの翡翠の瞳が揺れた。
冷え切っていた指先に、体温が戻ってくる。
「ノアちゃん、中枢で戦ったあと、まだ身体の奥が悲鳴を上げてたんすよね」
リノはメガネの奥の目を細め、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
「治癒術士の落ちこぼれっすけど……毎日隣の席でノアちゃんの様子見てたんだから、それくらいはお見通しっすよ」
「リノちゃん……でも……」
「巻き込みたくない、っすよね」
リノはノアの言葉を遮るように、だがどこまでも穏やかな声で続けた。
「ノアちゃんの魂は、きっとすっごく強いエネルギーが集まっていて……リノみたいな普通の人間が入ったら、焼け焦げちゃうんじゃないかって、本気で心配してくれてるんすよね」
ノアはきつく唇を噛み、コクンと小さく頷いた。
嘘はつけなかった。
アルトだった頃、力のない自分がどれほど惨めに使い捨てられたかを知っているからこそ、力のない大切な親友を、この過酷な戦場に立たせる恐怖に耐えられないのだ。
「でもね、ノアちゃん。リノは――お荷物になりたくてここに立ってるんじゃないっす」
リノの手から放たれる癒やしの風が、少しだけ強くなった。
ノアの体内の血流を促し、呼吸を整え、滞っていた大気の循環を正常へと押し戻していく。
「ノアちゃんの風は、いつも遠くで敵を切り刻んでたっす。……でも、今こうして触れてみると、本当は全然違うっすよね。すっごく柔らかくて……誰かの痛みを撫でて、呼吸を楽にしてあげる、優しい風っす」
「っ……」
ノアの胸が、ドクンと跳ねた。
そうだ。
元々――ノアの力は、暴れる火の精霊イグニスを冷まし、頑固な地の精霊テラを宥め、すべての命を循環させる「癒しの風」だった。
誰かを切り刻むための暴風は、みんなを守るために無理やり研ぎ澄ませた刃に過ぎない。
「ノアちゃんの本当の風は、誰かを傷つけるためのものじゃないっす。……それを一番近くで支えて、何倍にも広げてあげるのが、リノの治癒術士としての役目なんじゃないんすかね?」
リノの手が、ノアの華奢な手をぎゅっと握り直す。
今度は反発しない。
二人の手のひらの間で、翡翠色の光と若草色の光が、水彩絵の具のようにゆっくりと混ざり合い始めていた。
(あたたかい……。リノちゃんの風が、僕の奥まで……)
ノアの心の壁が、音を立ててほどけかけていく。
これなら――この親友となら、魂を一つにして――
――キィィィィィィィィッッッ!!
大気を切り裂く、鼓膜を劈くような凶悪な怪鳥の咆哮が、頭上から降り注いだ。
「――ッ!?」
二人の魔力の循環が、唐突に掻き消された。
世界樹の最頂部へと続く青空が、一瞬にして禍々しい紫黒の暗雲によって塗り潰されていく。
バサァッ、と突風が吹き荒れ、尖塔の石畳がミシミシと軋んだ。
雲海を突き破って現れたのは、全身が黒い樹皮と腐敗した毒羽で覆われた巨大な怪鳥――【変異種・瘴気嵐竜】。
深層から上層へと吹き上がった高濃度の瘴気が凝縮し、このフロアに受肉した上位の捕食者だった。
『グルルルァァァッ!!』
怪鳥が羽ばたくたび、黒紫の毒刃を孕んだ暴風が雹のように降り注ぐ。
「きゃあっ……!?」
あまりの風圧に、リノの身体が浮き上がりそうになる。
「リノちゃん、後ろに下がって……っ!」
ノアは咄嗟にリノの前に割って入った。
小柄な身体を前に出し、両手を広げて大気へと命じる。
「――凪げッ!」
翡翠の光が弾け、二人の前方に半球状の大気障壁が展開された。
直後、無数の瘴気の毒刃が防壁へと激突する。
ギャギャギャギャギャッ!!
金属同士をグラインダーで削り合わせるような、耳障りな破壊音が鳴り響いた。
防壁は毒刃を弾き落とすが――その衝撃は、ノアの小さな身体へとダイレクトに跳ね返ってくる。
「くっ……あ、が……っ!」
「ノアちゃん!?」
ノアの膝がガクリと折れかけた。
中枢戦でのダメージは、リノの応急手当だけでは完治していない。無理に大気を制御しようとした反動で、ノアの呼吸が激しく乱れ、口元から細い血の筋が垂れた。
怪鳥の濁った瞳が、獲物の弱りを見逃さない。
巨大な翼を大きく広げ、禍々しい羽根を鳴らしながら巨大なかぎづめを突き立てようと突進してくる。
「に、逃げて……リノちゃん……っ! ここは、僕が食い止めるから……っ!」
血を吐きながら、ノアは再び腕を上げようとした。
一人で受け止めようとする。
一人で傷つき、一人で消え去ろうとする、かつての悲しい癖のままに。
だが――そのノアの肩を、後ろから力強い手が押し戻した。
「――逃げるわけ、ないっすっ!!」
タタッ、と石畳を蹴る足音。
ノアの視界を遮るようにして、黒縁メガネをかけた華奢な背中が、真っ直ぐに怪鳥の前に躍り出た。
「リノ、ちゃん……!?」
「言ったはずっすよ! リノの大事な親友に、もう二度とあんな痛い思いはさせないって!」
リノは両手を広げ、迫りくる暗黒の暴風を正面から見据えて叫んだ。
「リノを信じて飛び込んでこいっ、ノアちゃん!!」




