暖かく臆病な風
世界樹上層ダンジョン第51層――『天蓋の暴風尖塔』。
雲海を遥か眼下に望むこの階層は、空へと突き出た白い巨塔の頂上であり、四方から遮るものなく吹き抜ける清涼な風が渦巻いていた。
他のペアたちがそれぞれの特訓場所へと散っていった後、その高台に残されたのは――ふたつの小さな人影だった。
びゅう、と吹き抜ける風が、白銀の髪と、少し癖のある茶髪を揺らす。
「…………」
「…………」
気まずい。
あまりにも、気まずかった。
転入初日、支援科2年Dクラスで席が隣り合って以来、これほどまでの沈黙が二人の間に流れたことなど一度もなかった。
ノアは制服のスカートの裾をぎゅっと両手で握りしめ、足元の白い石畳をじっと見つめている。
視線を上げれば、すぐ目の前にリノがいる。けれど、いつものように「ノアちゃん!」と屈託なく笑いかけてこない。
リノはといえば、両手を胸の前でモジモジと泳がせ、黒縁メガネのブリッジを何度も押し上げては、視線を左右に激しく泳がせていた。その顔は耳まで真っ赤で、額には尋常ではない冷や汗が浮かんでいる。
(ど、どうしよう……っ! なんて話しかければいいの……!?)
ノアの心臓は早鐘のように鳴っていた。
ずっと、隠していた。
風の精霊であることも、ネット中を騒がせている『翠光の仮面』の正体であることも。
リノがどれほど翠光の仮面を熱烈に推していたか、一番近くで見ていたからこそ、騙し続けていた罪悪感が胸をチクチクと刺して息苦しい。
それに――巻き込みたくなかった。
リノは前衛のエリートたちとは違う、支援科の普通の学生だ。いくら同じ風属性の治癒術士だからといって、魂を削り合うような過酷な戦場に引っ張り出していいはずがない。
「あ、あの……リノちゃん」
意を決して、ノアがおずおずと口を開いた。
「ひゃいっっっす!?」
リノが飛び上がりそうなほど激しく肩を跳ねさせた。
直立不動で固まり、ぎこちなく視線をノアへと向ける。
「は、はいっ! なんでございましょうか、翠光様……あ、いや、ノア様……!? ち、違くて、ノアちゃん……さん……!?」
「さ、さん付けやめてよ……! いつも通りでいいよ……!」
ノアが両手をぶんぶんと振ると、リノは顔を手で覆い、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。
「む、無理っすよぉぉぉ……! 情緒が、リノの情緒が完全にキャパオーバーっす……! だって……だって!?」
リノは指の隙間から、血走った目でノアを見上げた。
「毎日隣の席で『うどん美味しいね〜』ってふわふわ笑ってた美少女が、実はリノの部屋の壁一面にポスター貼って毎晩拝んでた『世界一の最推し』だったんすよ!? 現代の生ける神様っすよ!? そんなの……どう接したらいいか分かんなくなるに決まってるじゃないっすかぁ……!」
「うぅ……ごめん、なさい……」
ノアは申し訳なさで耳をぺたんと伏せるように俯いた。
「怒って……る……? 僕、ずっと騙してたから……」
「お、怒るわけないっすよ!」
リノが即座に叫んだ。
メガネの奥の瞳には、怒りなど微塵もなかった。あるのは、ただただ純粋な困惑と、オタク特有の途方もない恐縮だ。
「むしろ……申し訳なさすぎて死にそうなんす! リノ、ノアちゃんの目の前で『翠光様が尊い』とか『アクスタ出ないかな』とか散々騒ぎ倒してたんすよ!? ご本人様を前にして……! 穴があったら地下層まで潜り込んで埋まりたいっす……!」
「そ、そんな! 僕、すっごく嬉しかったんだから……!」
ノアは慌てて膝をつき、リノと視線を合わせた。
「転入してから、リノちゃんが最初に声をかけてくれて……『翠光の仮面』のことを楽しそうに話してくれるリノちゃんの顔を見るのが、僕、本当に嬉しかったんだよ」
「ノアちゃん……」
「だから……怖かったの。本当のことを言ったら、リノちゃんが遠くに行っちゃうんじゃないかって。……あの、学食で並んでうどんを食べる時間が、なくなっちゃうんじゃないかって……」
胸の奥にずっと閉じ込めていた小さな弱音。
それを聞いた瞬間、リノの表情から「オタクの動揺」がすっと消え、いつもの親友の顔が戻ってきた。
リノはゆっくりと息を吐き出し、膝を抱えたまま、ふっと口元を緩めた。
「……なくすわけ、ないじゃないっすか」
「え……?」
「リノにとって、翠光様は確かに神様っすよ。でもね……ノアちゃん。ウチが一番大好きなのは、お昼休みに天ぷらうどんの出汁をすすって、ほっぺた落としそうにしてるノアちゃんなんすよ」
リノはメガネの位置をくいっと直した。
「あの時、ノアちゃんが美味しそうに食べてくれたから、リノは嬉しかった。放課後に一緒に依頼に行って、ゆかりさんのアップルパイを半分こしたのが、高校生活で一番楽しかったんすよ」
ぽつりぽつりと語られる、何気ない日々の記憶。
世界を揺るがすような大事件ではなく、ただの支援科の落ちこぼれ同士が過ごした、温かい放課後。
「だから……神様だから助けたいんじゃないっす」
リノは真っ直ぐにノアの翡翠の瞳を見つめた。
「ウチの大事な親友に、もう二度とあんな痛い思いをさせたくないから……一緒に立ちたいんすよ」
「リノちゃん……」
ノアの視界が、じわりと涙で滲む。
けれど――その温かい言葉を受け止めたからこそ、ノアの胸の奥で、別の痛みが疼いてしまう。
ノアの風は、本来は攻撃のためのものじゃない。
大気の循環を促し、命の代謝を助ける「癒やしの風」。かつて幼生体の頃から、他の精霊たちの間を取り持ち、その傷を包み込んできた性質そのものだった。
そしてリノもまた、傷ついた者を癒やす風の治癒術士。
二人の魔力の根底にあるのは、まったく同じ「他者を護り、癒やしたい」という願いだ。
魂の相性としては、これ以上ないほどに完璧なはずだった。
なのに。
「……手、繋いでみるっすか?」
リノが照れくさそうに、右手をおずおずと差し出してきた。
「……うん」
ノアはその手をそっと握りしめた。
指先から、リノの温かい魔力が伝わってくる。
(繋がなきゃ……僕の風を、リノちゃんに……!)
ノアは意識を集中させ、自らの魂の核をリノへと開こうとした。
だが――。
パチッ、と小さく乾いた音が鳴り、二人の間を冷たい隙間風が吹き抜けた。
「っ……あ……」
魔力の波長が、まるで磁石の同極同士のように反発し、するりと指の間をすり抜けてほどけてしまう。
繋がらない。
どれほど優しく触れ合わせようとしても、互いの魂の扉が固く閉ざされたまま、頑として開かなかった。
「……やっぱり、ダメだよ……」
ノアは手を引っ込め、震える拳を胸元で抱きしめた。
その瞳には、深い恐怖が滲んでいた。
「ごめん、リノちゃん……。僕の魂が……拒絶しちゃってるんだ」
「え……? ノアちゃんが……?」
リノが目を丸くする。
ノアはきつく唇を噛み締め、涙を堪えるように俯いた。
「……怖いんだよ。リノちゃんの魂の中に、僕の精霊としての力を注ぎ込むのが……」
あの破壊された中枢の光景がフラッシュバックする。
黒い暴風が吹き荒れ、なす術もなく吹き飛ばされ、血を流して倒れたあの瞬間。
「大精霊様も言ってた。合一は、人間の魂に途方もない負荷をかけるって。失敗したら……リノちゃんの魂が、壊れちゃうかもしれないんだよ!?」
ノアの叫びが、風の尖塔に響き渡った。
「戦闘の訓練も受けてないリノちゃんを、こんな危険なことに巻き込めるわけない……! 僕が……僕さえもっと強ければ、リノちゃんにこんな無茶をさせなくて済むのに……っ!」
守りたいという想いが強すぎるあまり、ノア自身が無意識のうちに、リノを自分の魂から遠ざけようと拒絶の壁を張っていたのだ。
傷つけたくない。失いたくない。
その優しすぎる臆病さが、完璧な相性のはずの合一を、完全に阻んでいた。
吹き荒れる暴風の中、ノアは小さく震えながら立ち尽くす。
差し出された手を握ることすらできないまま、二人の特訓は、最初の第一歩で暗礁へと乗り上げていた。




