闇の盾
「――っ、く……うぅぅ……っ!」
黒鉄の大盾が激しく震動し、軋んだ金属音が黒樹林に響く。
夜々は歯を食いしばり、身体を沈み込ませて耐えようとしたが、盾の表面から噴き出した紫黒の魔力に押し戻され、ズザザッと泥濘を数メートル後退した。
「……だめ、ですぅ……っ。足が……滑っちゃいます……!」
大盾を杖代わりに突き立て、肩で息をする夜々。
その制服はすっかり泥だらけで、前髪も汗で額に張り付いている。
「焦るな」
ノワールは歩み寄り、乱れた夜々の大盾の魔力脈をじっと見据えた。
「お前、まだ腕の力だけで受け止めようとしてるだろ。さっき言ったはずだぞ」
「ふぇ……? あ、腕だけじゃなくて、体全体で、ですかぁ……?」
「そうだ。力で押し返すんじゃない。ぶつかってきた衝撃を、お前の身体と大盾を通して、そのまま足元の地面へ逃がすんだ。お前が大盾で『揺るぎない門』を作れ。俺がその裏で、余分な衝撃を全部呑み込んでやるから」
「門……はいですぅ! 夜々、絶対に倒れない門になります……!」
夜々は気合を入れ直すように自らの頬を両手でパチンと叩き、再び大盾を低く構え直した。
「いくぞ、もう一回だ!」
「はいっ!」
ノワールが手をかざし、再び紫黒の魔力を大盾へと叩きつける。
ドンッ! と重い衝撃音が森に吸い込まれた。
今度は後ろへ吹き飛ばない。
夜々はその体躯を大地にめり込ませるように沈め、軋む大盾を必死に支え続けた。
盾の表面を這う漆黒の魔力が、夜々の腕を伝い、足元の玄武岩へと泥臭く逃げていく。
ズズズ……ッと足が数センチ土を削ったが、倒れない。
盾の裏側で、夜々はぐっと歯を食いしばって耐えていた。
「よし……! そのまま耐えろ!」
「は、はいぃ……! あ、でも……ちょっと、お腹の底がぐるぐるしてきちゃいましたぁ……っ」
フッと限界を迎えた瞬間、受け止めきれなくなった魔力がプシュゥと大盾の隙間から霧散した。
夜々はへたり込みそうになる膝を必死に踏みとどまり、大盾に寄りかかって息を荒らげる。
「……はぁ、はぁ……。で、でも……さっきより、ちょっとだけ耐えられましたぁ……!」
泥だらけの顔を上げ、夜々はどこか嬉しそうに笑った。
派手な技ができたわけでもない。ただ、ノワールの放った魔力を、盾を構えたまま数秒間受け止めたというだけだ。
けれど、ノワールはそんな彼女を見下ろしながら、ふと自らの右手を握り込んだ。
(……なんだ?)
胸の奥に、小さな小石が引っかかったような感触がある。
闇属性の魔力は、常人なら少し触れただけでも神経を苛まれ、ひどい魔力酔いを起こすはずのものだ。
先ほど流し込んだ量は、まだ未熟な学生なら立ちくらみを起こして倒れてもおかしくない。
だが、この少女は息こそ切らしているものの、顔色が悪くなる気配すらない。
それどころか、流し込んだはずの闇の魔力が、彼女の大盾と身体を通り抜ける際――まるで、底の知れない泥沼に吸い込まれて消えていったかのような、奇妙な手応えのなさがあった。
(……気のせいか?)
ノワールは軽く頭を振り、その小さな引っかかりを思考の隅へ追いやった。
目の前で大盾を抱える夜々は、相変わらずぽやんとした間の抜けた顔でこちらを見上げている。
「あの……ノワールさん? もう一回、お願いしますですぅ!」
「……へばってねえなら、いくらでも付き合ってやるよ」
それから、夜が白み始めるまで、泥臭い反復練習を何度も繰り返した。
吹き飛ばされ、泥にまみれ、それでも夜々は諦めずに立ち上がり続ける。
お互いの呼吸を少しずつ合わせ、飛んできた一撃を二人で耐え忍ぶという、防御の最低限の形を身体に染み込ませていく。
「……ふぅ。よし、ひとまずこんなもんだろ」
東の空がわずかに白み始めた頃、ノワールが息を吐いて魔力を収めた。
黒樹林の木々の間から、朝の冷たい光が差し込んでくる。
「ひゃぅ……もう朝ですかぁ……。筋肉痛で、腕がプルプルしますぅ……」
夜々が大盾を抱えたまま、情けなくその場にぺたんと座り込んだ。
泥だらけの顔を見下ろしながら、ノワールは小さく息を吸い、歩み寄る。
「おい」
「ふぇ? な、なんですかぁ……?」
「最後に……一度だけ、試すぞ」
「試すって……合一、ですかぁ……?」
夜々がおずおずと見上げる。
ノワールは頷き、夜々の大盾の縁に手を添えた。
「さっき掴んだ感覚を忘れるな。……形だけでいい、合わせるぞ」
「は、はいですぅ……!」
夜々が立ち上がり、背筋を伸ばして大盾を構えた。
泥だらけの顔の奥で、とろんとした瞳が、すっと静かに据わる。
ノワールがその身を漆黒の奔流へと解き放ち、大盾の前面へと飛び込んだ。
二人の声が、夜明けの森に重なる。
『――霊装合一【冥盾闇装】』
カッと、紫黒の魔力光が大盾を包み込んだ。
肉体と魂が重なり合い、大盾の鉄板が黒曜石のような深黒へと染まっていく。
その合一の渦中、意識の奥底へとノワールの知覚が沈んでいった――。
その瞬間だった。
ドクンッ……。
ノワールの思考が、凍りついた。
(――――ッ!?)
これまで感じていた「不器用な学生の魔力路」の、さらにその奥。
大盾を通して接続された、夜々の魂の深層。
暗い。
冷たいわけでも、暴れているわけでもない。
ただ、どこまでも、どこまでも――底が見えない。
足元が抜け落ちるような、底知れぬ浮遊感。
大精霊であるノワールの全魔力を注ぎ込んでも、水滴の一粒にしかならないような、圧倒的なまでの――
「……ノワール、さん……? これで……合ってますかぁ……?」
大盾の向こうから、夜々の呑気で、頼りなげな声が微かに聞こえてくる。
光がふっと途切れ、ノワールは弾かれるように夜々の身体から離脱した。
泥濘の上にポンと着地する。
「はぁっ……はぁっ……!」
ノワールは膝をつき、肩を激しく上下させていた。
手袋越しに自らの掌を見つめる。指先が、信じられないほど小刻みに震えていた。
「ノ、ノワールさん!? 大丈夫ですかぁ……!? やっぱり夜々、何か失敗しちゃいましたか……!?」
合一の解けた夜々が慌てて大盾を投げ出し、おろおろと駆け寄ってくる。
心配そうに覗き込んでくるその瞳は、いつものようにぽやんとしていて、何の企みも、自覚も存在しない。
ノワールは荒い息のまま、呆然と目の前の少女を見上げた。
「……お前……」
喉がカラカラに渇いていた。
何が起きたのか、言葉にできない。いや、言葉にしてしまえば、自分たちの常識のすべてが音を立てて崩れ去ってしまうような、底知れぬ暗闇。
「……ノワールさん……?」
夜々が不安そうに首を傾げる。
ノワールは震える手を強く握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
そして、泥だらけの夜々から視線を逸らすように背を向け、掠れた声で呟いた。
「……いや。……なんでもねえ」
朝霧が立ち込める森の中。
ノワールはただ一人、自らの内に残る冷たい戦慄を押し殺すように、じっと薄暗い空を見つめていた。




