闇の少女と青年
世界樹上層ダンジョン第50層――『黄昏の黒樹林』。
常夜の帳が下りたこの階層には、光を通さない黒紫の巨木が立ち並び、足元には墨を流したような影の泥濘が広がっていた。
冷え切った静寂の中、ズシン……と鈍い地響きが落ちる。
175センチのすらりとした長身に、身の丈ほどもある巨大な黒鉄の大盾。
黒い重装鎧に身を包んだ影守夜々は、肩で息を乱しながら、大盾の縁にすがりつくように膝をついていた。
「……はぁ、……っ、重いですぅ……」
夜々の腕が小刻みに震えている。
大盾の表面には、濁った紫黒の魔力脈が乱雑に明滅し、まるで盾そのものが暴れているかのように唸りを上げていた。
闇属性――光と並び、世界樹の理の中でも極めて特殊で、扱いが困難とされる力。
大盾の自重すら支えられず下敷きになって泣いていた夜々は、ノアの『魔力調律』によって流れを整えてもらい、ようやく盾を構えられるようになった。だが、それはあくまで応急処置。戦闘の中で激しく魔力を循環させようとすると、闇の魔力は途端に主の制御を拒絶して暴走を始めてしまうのだ。
「……だから、押し込もうとするなと言ってるだろ」
冷たい、ぶっきらぼうな声が頭上から降ってきた。
「ひゃぅっ……!?」
夜々はびくっと肩を跳ねさせ、大盾の陰に慌てて頭を引っ込めた。
おずおずと覗き込んだ先には、両手をポケットに突っ込み、仏頂面で佇む黒髪の青年――ノワールの姿があった。
その鋭い目つきと、全身から漂う底知れぬ威圧感に、夜々は縮こまる。
(こ、怖いですぅ……。怒らせたら、影に呑み込まれちゃいそうですぅ……)
「……べ、別に怒っちゃいない」
ノワールは夜々の怯えを敏感に察し、わずかに眉根を寄せて視線を逸らした。
「お前がそうやって力任せに魔力を押し込むから、盾の中の闇が反発して重くなってんだよ」
「は、はいぃ……! ご、ごめんなさいですぅ……!」
「謝るな。……ったく、教えるのなんてガラじゃねえんだよ」
ノワールは頭をガシガシと乱暴に掻いた。
嫌な顔をして投げ出したいわけではない。むしろ、ノアから「夜々ちゃんに闇の扱いを教えてあげてほしい」と頼まれた時、ノワールは迷わず頷いていた。
かつて生まれたばかりの泥濘の中で暴走し、闇の力で周りを傷つけてしまった自分を、ノアたちは見捨てずに根気強く言葉を重ね、力を落ち着かせる術を教えてくれた。その恩を返すためにも、この大柄でおとなしい彼女に力を貸したいと思っている。
――思ってはいるのだが。
(どう教えりゃいいんだ……? )
ノワール自身、他人に手解きをした経験など一度もない。教え方が分からず、焦るほど声が低く、トゲのある口調になってしまうのだった。
「……おい」
「ひゃいっ!」
ノワールが数歩近づくだけで、夜々は大きな身体をギュッと丸めて目を白黒させる。
ノワールは溜息を呑み込み、夜々の目の前で屈み込んだ。
そして、暴れている大盾の表面に右手をそっとかざす。
スッ……と、盾から立ち上っていた乱暴な紫黒の魔力が静まり、大人しく鎮火していった。
「ふぇ……? お、重さが消えましたぁ……」
「闇は、四元素みたいに『放出』したり『叩きつける』もんじゃない。……引きずり込んで、呑み込んで、留める力だ。お前が『操ってやろう』と力めば力むほど、闇はお前を異物だと認識して噛みついてくる」
ノワールは自分の手の平を見つめた。
そこには、かつて暴走してノアたちを傷つけた傷跡のような、消えない記憶の影が揺らめいている。
「……俺も、最初はそうだった。自分の力に呑まれて、何がなんだか分からなくなって……全部壊そうとした。でも、ノアたちが教えてくれたんだ。闇は、拒絶するための力じゃない。……受け入れるための力だってな」
ノワールの横顔は、不器用で、ぶっきらぼうで、けれどどこまでも真剣だった。
夜々は目をパチクリと瞬かせ、胸元で手をぎゅっと握りしめた。
最初に出会った時は「冷たくて怖そうな人」だと思っていた。
でも、乱暴に見える言葉の端々には、決して夜々を見放さない静かな熱と、同じ力に苦しんだ者としての痛みが滲んでいた。
「……あの、ノワールさん」
「……何だよ」
「夜々……昔から、のんびりしてて、足も遅くて、盾もまともに持てない落ちこぼれでしたぁ」
夜々はぽつりと、自分の胸の内を零した。
大きな身体を少しだけ緩め、静まり返った大盾の縁に指を添える。
「闇の魔力も……みんなから『不気味』とか『扱いづらい』って言われて、ずっと怖かったんです。……でも、ノア先輩が『大丈夫だよ』って言ってくれて……夜々の盾を、整えてくれました」
夜々はとろんとした、けれど芯のある瞳でノワールを見上げた。
「夜々、前衛で敵をバッタバッタと倒すことはできません。……でも、ノア先輩や、リノ先輩……みんなが傷つくのは、ぜったいに嫌なんです。……夜々のこの大きな盾で、ぜんぶ受け止めて、守りたいんですぅ」
「…………」
「ノワールさん。……夜々に、闇の受け止め方……教えてください!」
ペこりと、深々と頭を下げる大柄な少女。
その素直で真っ直ぐな瞳を前にして、ノワールはふっと肩の力を抜いた。
「……だから、謝るのもへこへこするのもやめろっての」
ノワールは小さく鼻を鳴らし、夜々の大盾の裏側――グリップのすぐ横に、自分の手を添えた。
「もう一回だ。……今度は、押し出そうとするな。自分の胸の奥に、深い穴を掘るイメージを持て。大盾にぶつかってくる衝撃も、魔力も、全部その穴に『落とし込む』んだ」
「落とし込む……」
「そうだ。……いくぞ、俺の魔力を少し流し込む。ビビるなよ」
「は、はいですぅ……!」
薄暗い黒樹林の中、二人の影が重なり合う。
不器用な闇の精霊と、おっとりとした大盾の少女。
互いに手探りのまま、二人の本当の特訓が、静かに始まろうとしていた。




