刻限の爪痕
フッ、と静寂が落ちた。
中枢フロアごと全員をミンチにするはずだった暴風は、青年の背後に広がる黒の帳へと、跡形もなく吸い込まれていた。
荒れ狂っていた大気がピタリと止まり、張り詰めた沈黙が下りる。
「……ノ、ワール……?」
床に倒れ伏したまま、ノアは掠れた声で名を呼んだ。
白の患者服を翻して立つ黒髪の青年は、振り返らない。肩を激しく上下させ、荒い息を吐いていた。
直後――。
「――ゴホッ……! ゲホッ……!」
ノワールの口元から、ドロリと黒い血が床へ滴り落ちた。
ガクッと膝が折れかけ、床に手をつく。
「ノワール!?」
ノアは痛む身体を引きずって這い寄ろうとした。
けれど、ノワールは手の甲で口元の血を乱暴に拭うと、きしむ足を踏ん張り、再び立ち上がった。
ノアの前に立ち塞がるように、しっかりと床を踏みしめて。
かつて世界樹の深淵で、怪物の爪からノワールを庇い、お腹を貫かれて倒れたのはノアだった。
あの時の自分とノワールの位置が、今はちょうど真逆になっている。
「……騒ぐな、ノア。……これくらい、どうってことない」
振り返りもせず、ノワールは低く吐き捨てた。
その皮膚の隙間からは、先ほど呑み込んだ暴風の残滓が、黒く燻る蒸気となってバチバチと漏れ出している。
それを遠巻きに眺めていた黒髪の少女は、真紅の瞳を細め、ケラケラと笑い声を響かせた。
「あははっ! なぁんだ、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん!」
少女がふっと息を吹きかけただけで、周囲の大気が歪み、足元の床が十数箇所同時に細切れに弾け飛ぶ。
「アンタの器、今のでギッチギチじゃん。もう一発アタシの風をぶち込んだら、中からパンッて弾け飛ぶんじゃない?」
「……試してみるか?」
ノワールが冷たく返す。
「言ったね? じゃあ、遠慮なく――」
少女が指先を鳴らそうとした――その刹那。
「――返すぞ」
ノワールが踏み込んだ。
体内に圧縮していた暴風のエネルギーが、闇の性質を帯びて一気に反転放出される。
ドォォォォンッ!!
放たれたのは、先ほどの極大暴風そのもの――それを漆黒の魔力で変異させた、巨大な黒い斬撃。
「っ!?」
少女の表情が引きつり、咄嗟に三重の圧縮障壁を展開する。
直後、鼓膜を劈く衝突音が轟いた。
少女自身のフルパワーが上乗せされた黒い斬撃は、前二重の障壁を紙のように砕き、最後の壁ごと空間を爆砕した。
「きゃああっ!?」
爆風を受け、少女の小柄な身体が吹き飛ぶ。
背後の防壁へ激突し、ズザザッと瓦礫を削りながら床へ着地した。その額からは赤い血が滲んでいる。
「……ッ痛ぁ……! くっそ、打ち返して……!?」
苛立たしげに額を拭う少女。
だが、撃ち返したノワールもまたガクンと膝をついた。体内の熱量は放出したものの、病み上がりの肉体には相当な負荷がかかっている。
「……なるほどね」
少女の姿が掻き消えた。
神速。
膝をついたノワールの真横――闇の展開が間に合わない死角へと回り込む。
「撃ち返したあとは丸裸なわけだ!」
至近距離から放たれる、無数の黒風の弾丸。
ノワールが闇を広げようとするが、散弾すべてを捉えるには展開が追いつかない。
(間に合わない――っ!)
「――いかせないッ!」
ノアは床を這いながら、翡翠の魔力を空間全体へ解き放った。
弾丸を相殺する力はもう残っていない。だからノアは、気流の角度を五ミリだけ内側へ――すべてノワールの正面へと集まるよう、強引に曲げた。
「なっ……曲げた……!?」
正面に収束した弾丸の群れを、ノワールの闇がゴゥッと残らず呑み込んでいく。
「ちぃっ……!」
舌打ちして飛び退く少女。
「……ぐっ、ノア、風を……!」
ノワールは膝をつき、肩で息を荒げながら叫んだ。
体内に再び黒い熱量が満ちている。立ち上がる余力すらないまま、腕を前に突き出す。
ノアもまた立ち上がれず、床に片膝をついたまま手をかざした。
「……うん……っ!」
ノワールが放った黒い斬撃に、ノアが床際から絞り出した気流を絡め、少女の逃げ道へ向けて無理やりコースを歪める。
「きゃあっ!?」
少女の肩を黒の刃が浅く裂き、鮮血が散った。
二人して膝をつき、満身創痍で繰り出した泥臭い一撃が、かろうじて届いた。
だが――届いたのはそこまでだった。
「……あーあ。調子に乗っちゃってさ」
温度の消えた声が、冷たく落ちてきた。
少女の瞳から、遊ぶような色が完全に消え失せていた。
ただ佇んでいるだけなのに、フロア全体の空気がギシギシと悲鳴を上げ、肌を切り裂くような重圧へと変わる。
「ちょっと付き合ってあげたら、対等になった気ぃ? ナメないでよ」
少女が腕を薙いだ。
それだけだった。
壁一面の防護結界が、紙くずのように一瞬で引き裂かれる。
「っ……!?」
けたたましい破壊音とともに、視界を埋め尽くす黒い突風の津波。
ノワールが咄嗟に闇を展開して呑み込もうとするが――出力の桁が違っていた。
「ぐ、ぁぁっ……!?」
ノワールの口から大量の血が噴き出す。
呑み込める器の容量を遥かに超え、闇の帳がボロボロと霧散する。漏れ出た黒風がノワールの身体を容赦なく弾き飛ばした。
「ノワールッ!!」
ノアは大気のクッションを作って落下するノワールを受け止めようとするが、その隙を少女が見逃すはずもなかった。
気づいた時には、少女はノアの眼前に肉薄していた。
「バイバイ、本物」
ゼロ距離から放たれた衝撃波が、ノアの腹部を直撃する。
「が、ぁ……っ!?」
息を吐き出す間もなく吹き飛ばされ、ノアは背中から防壁に激突して崩れ落ちた。
視界が白く明滅し、指先ひとつ動かせない。
少女は倒れ伏す二人を一瞥すら褪せず、すたすたと背を向けた。
その先にあるのは――部屋の最深部にそびえ立つ、都市防護結界を統括する巨大な魔導水晶の柱。
「待て……っ!」
ノアは床に爪を立て、掠れた声を絞り出す。
だが、少女は振り返りもしない。
黒い風を纏った右手を、無造作に水晶の根元へと突き立てた。
バキィィィィィィンッ――!!
耳障りな破砕音とともに、水晶が砕け散る。
中枢に刻まれた魔導回路が激しくショートし、赤黒い警告光がフロア中を埋め尽くした。
『――警告。第一種都市防衛結界、中枢機能の喪失を確認』
『残存エネルギーによる自立維持モードへ移行――完全崩壊まで、残り七十二時間』
無機質な機械音声が、残酷な刻限を告げる。
「よし、お仕事完了っと」
少女はパチンと指を鳴らした。
床に黒い風の渦が開き、その身体を足元から呑み込んでいく。
「あははっ! 最初からアンタたちと遊ぶのが目的じゃないんだよねぇ。結界が完全に消えるまで、あと三日! そしたら外で待機してる連合の軍隊も、翠光教の可愛い信徒たちも、ぜーんぶ雪崩れ込んでくるからさ!」
渦に沈みながら、少女は嘲笑うように手を振った。
「せいぜい足掻いてよね、オリジナル! アタシがこの街をぜんぶ更地にしてあげるからさぁ!」
突風が弾け、少女の気配は完全に消え去った。
残されたのは、半壊した結界中枢と、床に広がる血の跡。
そして、無情にカウントダウンを刻み続ける赤い警告の光だけだった。
「……くそ、っ……」
ノワールが悔しげに床を殴りつける。
ノアもまた、震える手で胸元を押さえ、迫り来る破滅のタイムリミットを見上げるしかなかった。
学園都市の崩壊まで、あと七十二時間――。




