圧倒的な暴力
中枢北側ゲートから防衛結界中枢へと至る回廊は、見る影もなく粉砕されていた。
「ぐあああっ!」
「ひ、怯むな、撃て! 障壁を展開――ぎゃあっ!」
何重にも張られたはずの軍用対魔法防壁は、まるで薄紙のように引き裂かれ、重装甲を纏った防衛部隊の兵士たちが木の葉のように吹き飛ばされていく。
破壊の嵐の中心に立っていたのは、小柄な人影だった。
漆黒の髪をふわりとなびかせ、ノアと寸分違わぬ顔立ちをした少女。
だが、その瞳はノアの澄んだ翡翠とは対極にある、血のように鮮烈な真紅。その赤い双眸には、他者を踏みにじることへの純粋な愉悦が怪しく爛々と宿っていた。
「あはっ、脆い脆い! なぁにこれ、ぜーんぶただの雑魚じゃん! アタシを止めるんじゃなかったのぉ?」
少女が軽く指先を振るうだけで、大気が悲鳴を上げ、不可視の衝撃波が回廊を薙ぎ払う。
防衛線は紙屑のように崩壊し、黒き風はついに都市の心臓部――最深部の結界維持装置の間へと土足で踏み込んでいた。
「そこまでだ……ッ!」
血塗れの刀を握りしめ、鳴神冴香が立ちはだかる。
肩から鮮血を流し、息を乱しながらも、鋭い切っ先を少女へと突きつけた。だが、その背後に控える防衛部隊はすでに壊滅状態であり、歴戦の探索者である冴香でさえ、満身創痍の限界に達していた。
「あ、まだ生きてたんだ、教官サマ? もうボロボロなんだから、大人しく床で寝てなよ。邪魔なんだよねぇ」
少女が退屈そうに腕を薙ぎ、漆黒の刃が冴香の首元へ迫る。
防ぎきれない――冴香が覚悟を決めて歯を食いしばった、その刹那。
キィィィィンッ!!
激しい暴風と澄み渡る蒼碧の魔力が割り込み、黒い刃を間一髪で弾き飛ばした。
「……先生、下がってください!」
翠の光を纏い、翡翠の瞳を決意に染めたノアが、二人の間に滑り込んでいた。
その姿を見た瞬間、黒髪の少女はピタリと足を止め、真紅の瞳をギラリと怪しく細めた。
「……へぇ」
少女はノアの頭から爪先までを値踏みするように舐め回し、クスクスと喉を鳴らして笑い出した。
「見ぃーつけた。アンタが、アタシの元データってわけね?」
「……っ」
「ふぅん、なるほどねぇ。いかにも『おとなしくて良い子ちゃんな優等生』ってツラしてて、すっごく不愉快! ゲロ吐きそうなくらい虫酸が走るわ」
少女は腰に手を当て、意地の悪い笑みを深めた。
「アタシはね、アンタの出来損ないの部分をぜーんぶ捨てて造られた、完全な風なの。自己紹介はいらないでしょ? 同じ顔なんだしさ!」
「君は……誰に造られたの? どうしてこんな酷いことをするの……!」
ノアは風の障壁を保ちながら、必死に言葉を投げかけた。
「私と同じなら暴力をやめて、話を聞いて……!」
「あははははっ! 対話? 説得ぅ?」
少女はお腹を抱えて大笑いし、次の瞬間、真紅の瞳に冷酷な嗜虐の色を浮かべてノアを射抜いた。
「甘ったれてんじゃないわよ、バァカ!」
ドンッ!!
不可視の突風がノアの腹部を的確に捉えた。
「くっ……!?」
「ノア!」
吹き飛ばされ、床を転がるノアに冴香が叫ぶ。
「アタシはね、ただ壊すのが楽しいの! アタシのほうがアンタより強いって証明するのが気持ちいいの! くだらないお説教なんて、誰が聞くのよ!」
少女が愉悦に満ちた笑みを浮かべ、跳躍した。
近接、射撃、魔法――そのすべてが規格外だった。
冴香をはじめ、周囲に倒れ伏す大人たちが拳を握りしめても、その猛攻のスピードと魔力量は常軌を逸しており、援護の弾丸すら彼女の纏う風に呑まれて霧散してしまう。大人たちは、ただ見ていることしかできなかった。
(速い……!)
ノアは必死に防戦しながら、相手を無力化する術を模索していた。
魔獣相手ならいざ知らず、人相手には、極力ケガをさせないよう酸欠や衝撃による気絶を狙うのがノアの常だった。
ノアは少女の周囲の空気を瞬時に奪い、局所的な無酸素空間を作り出そうとする。
――だが。
「あーあ、ぬるいぬるい! 酸欠で気絶させようってわけぇ?」
少女がパチンと指を鳴らした瞬間、気圧の均衡が強引に狂わされ、無酸素空間が掻き消えた。
「同じ大気の支配者なんだから、そんなチンケな小細工、通じるわけないでしょ!」
(なら……相手の風の軌道を強引に捻じ曲げて――っ!)
ノアは両手を突き出し、迫り来る黒い突風に自らの魔力を割り込ませた。
同じ風を司る者同士、大気の支配権を奪い取ろうと干渉を試みる。
一瞬、黒い気流の軌道がぐらりと揺らぎ、ノアの意志に従って逸れかけた――。
だが、直後。
バヂィッ……! と黒い火花が弾け、圧倒的な重圧がノアの腕を襲った。
(くっ……重い……!? 押し切られる……!?)
気流の主導権を奪い返そうとするノアの繊細な魔力に対し、相手の風は狂気じみた出力で濁流のように押し寄せてくる。
多少の操作や上書きはできる。けれど、力比べの純粋な総量で強引にねじ伏せられ、大気の制御を力負けして奪われてしまう。
「あははっ! 無駄無駄ぁ! 押し負けてんじゃん!」
少女は嘲笑を浴びせながら、獰猛に指先を躍らせる。
「アタシの身体とこの魔力はね、最初から『アンタの風を殺すため』だけに極限までチューニングと過剰強化されてんの! アンタのぬるい風なんて、アタシの力でいくらでも上から叩き潰せるんだよ!」
精霊であるノアのデータを徹底的に研究し尽くした末の、完全な【対ノア・対精霊特化】の殺人兵器。
相手の風の軌道をわずかに逸らすのが精一杯で、完全に相殺することも防ぎきることもできない。
直後、競り負けて制御を失った黒い風の礫が、ノアの四肢を容赦なく切り裂く。
「きゃあっ……!」
「ほらほら、どうしたの優等生! 避けてみせなよ、防いでみなよ!」
少女の攻撃は、いたぶり、苦痛を与えることそのものを楽しんでいるようだった。
一方のノアは、大気の主導権争いで力負けし、かといって本気の大規模破壊魔法を使えば、目の前の少女の命を奪いかねない。その迷いが手足を鈍らせ、完全に防戦一方に追い込まれていた。
「……あーあ、つまんないの」
少女はピタリと攻撃を止め、唇を尖らせて心底退屈そうに溜息をついた。
「何なのアンタ? さっきから手加減ばっかりしてさぁ。反撃もアタシを傷つけないようにビクビクして……マジで虫酸が走るんだけど。アンタのそういう甘ったるいトコ、ホント大っ嫌い」
「僕は……君を傷つけたくない……! 君だって、利用されているだけかもしれないのに……!」
肩を押さえ、血を滲ませながら立ち上がるノア。
その言葉を聞いた瞬間、少女の真紅の瞳から笑みが消え、純粋で底知れない悪意が立ち昇った。
「……ふぅん。どこまでも良い子ちゃん気取りなんだ。死ぬほどムカつく」
少女はノアから視線を外し、床に倒れ伏している冴香や、傷だらけの防衛兵たちへとゆっくりと首を向けた。
その指先に、黒く禍々しい極大の圧縮旋風が渦を巻き始める。
「じゃあさ――」
少女は無邪気で残酷な、サディスティックな笑みを浮かべた。
「アンタが必死に守りたがってるそのゴミクズどもを、今ここで一人ずつミンチにしてあげよっか? そしたらさぁ……アンタも、本気でアタシを殺す気になってくれるんじゃない?」
圧縮された暴風の切っ先が、冷酷に冴香たちへと向けられた。
「やめ……ッ!!」
ノアは考えるよりも早く、傷だらけの身体で地を蹴っていた。
一気に跳び出し、床に倒れ伏す冴香や防衛兵たちの前へと滑り込む。自らの両腕を広げ、背中を向け、小さな体いっぱいで大人たちを覆い隠すように立ちはだかった。
ドガガガガッ!!
「ぐ、ぅぅ……ッ!?」
放たれた黒風の乱舞が、ノアの華奢な全身を容赦なく切り刻む。
大気の上書きで威力を完全に殺しきれず、力負けした余波の暴風を、ノアは自らの肉体と生半可な障壁だけで耐え忍ぶしかなかった。
制服が裂け、鮮血が舞い散り、その白い体は赤く染まっていく。
「ノア……ッ! 馬鹿野郎、逃げろッ!」
冴香が血を吐くような叫び声を上げた。
だが、身体が動かない。激痛と魔術疲労で指先一つ満足に動かせず、自分を庇ってボロボロになっていく娘を、ただ床に這いつくばって見つめることしかできない。周囲の兵士たちも、歯を食いしばり涙を滲ませながら、その絶望的な光景に爪を立てていた。
「あははははっ! ほーんとバカ! 風じゃ防ぎきれないからって、自分で盾になりにくるなんて最高のお笑い草じゃん!」
黒髪の少女は真紅の瞳を狂喜に歪ませ、細腕を天へと掲げた。
ゴオォォォォォッ……!!
中枢の天井が軋み、空間そのものが歪み始める。
先ほどまでの攻撃とは桁が違う、絶望的な大気の奔流。
一撃でこのフロアごと、ノアも、庇われている大人たちも塵一つ残さず消滅させるだけの、破滅的な極大暴風球が形成されていく。
「お望み通り、まとめてミンチにしてあげるよ! バイバァイ、出来損ないのオリジナルッ!!」
少女が腕を振り下ろした。
逃げ場のない、完全なる終焉の嵐がノアたちへ殺到する――。
ノアは覚悟を決め、ギュッと目を閉じた。
――だが。
衝撃は、訪れなかった。
フッ……と、あらゆる音が消え去った。
世界から光が奪われたかのような、絶対的な暗闇。
「……え?」
ノアが恐る恐る目を開けた瞬間、信じられない光景が広がっていた。
空間を圧壊させるはずだった絶望的な大気の暴力が、目の前に突如として立ち現れた「底知れぬ黒の帳」へと、吸い込まれるように、一筋の風すら残さず綺麗に霧散していったのだ。
吹き荒れていた風が止み、静寂が落ちる。
闇がほどけ、ノアの目の前に、ひとつの背中が現れた。
乱暴に病棟を抜け出してきたのだろう、白の患者服を翻し、肩で荒い息を吐きながら立つ黒髪の青年。
ノワールが、立ちはだかっていた。




