複製された風の力
深夜――防音・遮蔽結界が厳重に施された、第十三研究室。
旧校舎の地下備蓄庫から戻ったノアと氷華は、同行させてしまったリノと夜々を寮の自室へ送り届けて安全を確保した後、そのまま鳴神冴香のもとへ出頭していた。
室内には換気扇の低い唸り音と、精密魔導機器の駆動音だけが静かに響いている。
パイプ椅子に腰掛けた鳴神先生は、腕を組んだまま、静まり返った部屋の中で静かに二人を見据えていた。
「――それで? 自分たちだけで怪しげなカルトの集会に潜入し、あまつさえ一般生徒二人まで巻き込んで戻ってきた、と」
怒鳴るわけでもなく、ただ低く落とされた声。
感情を荒らげないその静けさが、かえって事の重大さを物語っていた。
「……申し訳、ございません」
神薙氷華は、生徒会長としての威厳を崩し、痛恨の面持ちで深々と頭を下げた。
その手は、悔しさと自責の念からギュッと固く握りしめられている。
「翠光教の異常な拡大、そしてノアさんを騙る不穏な動きに……わたくし自身、冷静さを欠いておりました。『生徒たちを救わねば』という焦りに囚われ、一歩間違えれば全員を危険に晒すところでした。生徒会長として、あまりにも軽率な判断でした……どのような処分もお受けいたします」
普段の怜悧で完璧な氷華を知る鳴神は、静かに息を吐き、組んでいた腕を解いた。
「……深層調査やノワールの件で、お前たちを過酷な戦場へ引きずり出した私に、偉そうに説教する資格はないのかもしれん」
自省を滲ませた先生の言葉に、氷華がハッと顔を上げる。
「だが、あの時はボルドー殿や私といった大人が退路と責任を背負い、都市の存亡を懸けて踏み切った非常措置だ。……今回のように、引率もおらず、バックアップもないまま、実戦経験のない一般生徒まで巻き込んで夜間の敵地へ突っ込むのは、覚悟ではなくただの無謀だ。お前たちに何かあったら……取り返しがつかんのだぞ」
教官として、そして保護者としての本音が滲む声音に、氷華は胸を突かれたように唇を噛んだ。
「……はい。ノアさんが関わると、わたくしは……視野が狭くなってしまうようです。重々、肝に銘じます」
俯く氷華の横で、ノアもいたたまれずに小さくなって頭を下げた。
「先生、僕からも止められたはずなのに……本当にごめんなさい」
鳴神はノアの前に歩み寄ると、わずかに眉尻を下げて――いつもの乱暴な手つきで、けれど壊れ物を扱うようにそっと、ノアの白銀の髪に手を置いた。
「……お前が無事に戻ってきてくれたから、こうして小言で済んでいるんだ。お前がどれだけ規格外の力を持っていようと、私にとっては……まだ背丈も伸びきらん、朝飯の卵焼きを焦がして凹むような子どもなんだからな。自分の身を軽く考えるな」
「先生……」
「お前もだ、氷華。……直接のクラス担任ではないが、私にとってお前も等しく大切な教え子だ。もっと自分自身を大切にしろ」
「はい。……ありがとうございます」
ぶっきらぼうな声音の奥にある、確かな温度。
ノアの頭をぽんと軽く一度だけ撫でて手を引っ込めると、鳴神先生は咳払いをひとつ落とし、指揮官の厳しい目つきへと切り替えた。
「さて――偉そうな説教はここまでだ。お前たちが持ち帰ってきた情報とサンプルは、致命的な一手になり得る。まずは敵の計画だな」
「はい」
氷華が姿勢を正し、先ほど見聞きしてきた敵の計画――明日の正午、洗脳された信徒たちを使って防衛結界中枢を破壊・停止させ、外部の企業部隊を引き入れようとしている企図を簡潔に報告した。
「なるほどな。明日の正午、防衛結界中枢の襲撃か」
鳴神は顎に手を当てて考え込む。
「外部からの編入生幹部が、怪しげな薬で信徒を煽動して突撃させる……絵に描いたような捨て駒作戦だ。中枢結界を内側から落とされたら、都市外縁で待機している企業連合の部隊が一気になだれ込んでくるぞ」
「先生、すぐに学園都市警備隊へ要請を出しましょう」
氷華が生徒会長として進言する。
「中枢の警備ラインを正規部隊で固め、突入してきた幹部と信徒たちを水際で拘束・鎮圧すべきです」
「ああ。警備隊への出動要請は今夜のうちに私が通しておく。獅堂の特命執行部にも根回しして、都市外縁の企業部隊に対する警戒網を張らせるつもりだ。……中枢の防衛線は大人が固める。氷華、お前を含め、生徒たちは明日は一切手出し無用だ。通常通り授業を受け、寮や校舎から出るな」
「し、しかし……! 相手は操られた本校の生徒たちです。重武装の警備隊では加減が利かず、怪我人が出る恐れが――」
「だからこそ、だ」
鳴神は遮るように、静かだが有無を言わさぬ眼光を向けた。
「生徒同士で戦わせるような真似をさせるわけにはいかん。怪我人を抑えつつ制圧するための非殺傷装備の配備も含めて、すべて大人の責任で対処する。クラリスやクローディアたちにも余計な詮索はさせるな。学生は学生の本分を果たして身を守れ。……いいな?」
「……っ、承知いたしました」
氷華は悔しそうに拳を握りしめながらも、教官の強い意志を受け止めて頭を下げた。
「よし。……だがな、本当に警戒すべきは、お前たちが現場から回収してきた、あの幹部が配っていた『覚醒薬』のサンプルだ」
鳴神先生はそう言って、机の上の小型分析トレイに視線を落とした。
ノアが旧備蓄庫を脱出する直前、風でかすめ取ってきた紫色の薬液。
教官用の大型魔導アナライザーにかけられていた解析データを、壁面のホログラムスクリーンに展開する。
「……二人とも、これを見ろ」
画面に浮かび上がったのは、複雑に波打つ魔力のスペクトル波形だった。
それを見た瞬間、氷華の青銀の瞳が見開かれ、息を呑んだ。
「これ……嘘、でしょう……!?」
そこに表示されていた魔力波形は、他の誰のものでもない。
世界樹ダンジョンの底で仲間たちを救い、大蒼樹祭の空を満たした――ノア自身の、風の精霊としての固有魔力波長と完全に一致していたのだ。
「な、なんで……? 僕の魔力……?」
ノアは自分の両手を見つめ、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
壇上で幹部は確かに「翠光様の御神気を抽出した」と豪語していた。
だが、そんなものは信徒を騙すためのハッタリや、粗悪な合成麻薬の類だと思っていたのだ。
「先生……これ、本物なのですか……!?」
氷華が机に身を乗り出し、震える声で問い詰める。
「ノアさんは世界樹の風の精霊。その魔力情報は、地上にたった一つしか存在しない絶対的なものです。学園都市の最高峰の研究所ですら解析・抽出などまだ出来ていないはず……! なぜ外部の組織が、ノアさんの生体魔力を薬品に組み込めているのですか!?」
「ああ。本来ならあり得ない」
鳴神先生の声は極めて低く、冷え切っていた。
「魔力の型取りだけじゃない。この液体は、ノアの生体情報そのものを培養液で強制的に増殖・複製させた痕跡がある。……だからこそ、信徒たちは『本物の翠光様の力だ』と本能で信じ込まされ、精神を完全に掌握されているんだ」
室内の空気が、氷点下まで張り詰めた。
外部の人間たちが、なぜ未開の領域である精霊の生体データを手に入れることができたのか。
誰が、精霊であるノアの極秘情報を外部組織に横流しし、製造を可能にしたのか。
「……薬品にすらこれほどの生体データが使われているとなると、明日の襲撃、連中が持ち出してくるのは薬で操られた生徒たちだけとは思えん」
鳴神先生の重い呟きに、氷華も息を詰める。
「ノアの生体データをここまで精密に複製できる連中だ。単なる薬の散布だけで満足しているはずがない。……明日の正午、中枢にはさらに厄介な『何か』が持ち込まれる可能性がある」
先生の視線が、ノアへと戻る。
その瞳には、指揮官としての冷徹さと――我が子を危険から遠ざけたい親としての微かな葛藤が滲んでいた。
「氷華は明日、生徒会長として一般生徒の避難誘導の待機を。……ノア、お前は私の手元から絶対に離れるな。この魔力の当事者であり、現場で何が起きているかを察知できるのはお前だけだ。……私の目の届く範囲にいろ。絶対に守り切る」
「はい……!」
ノアは胸元をぎゅっと握りしめた。
自分の魔力が、自分の知らないところで複製され、冒涜のように悪用されている。
その底知れぬ気味悪さと、得体の知れない悪意。
(誰が……何のために、僕の力を……?)
大人が万全を期して敷いた防衛網。
だが、敵の悪意はその網の目を嘲笑うかのように、明日、学園の日常そのものを飲み込もうとしていた。
防衛結界中枢――決戦の正午まで、あと十二時間。




