潜入! 偽りの聖域
深夜、旧校舎の裏手に位置する旧地下備蓄庫。
錆びついた重い鉄扉の前で、深い緑色のフード付きローブを羽織った四つの影が足を止めた。
「……いいっすか、みんな。ここから先は『翠光教徒』になりきるっすよ」
リノがローブの隙間から真剣な眼差しを覗かせ、小声で念を押す。
「合言葉は『風の導きに平伏せよ』。それと、胸の前で手を組んで軽く頭を下げるのが信徒の基本礼儀っす。……変に怪しまれないよう、自然に合わせてほしいっす」
「う、うん……わかった」
ノアは深くローブを目深に被り直した。
まさか自分を崇める怪しげな集会に、自分自身が信徒のふりをして潜入することになるとは夢にも思わなかった。胃のあたりがじわじわと痛む。
横に立つ夜々も、緊張した面持ちで小さく息を呑んでいる。
そして、生徒会長である神薙氷華は――フードの奥で感情を完全に押し殺し、冷徹な静寂を纏っていた。
ノアが本物の「翠光の仮面」であることを知っている彼女にとって、紛い物のカルトを前に頭を下げるなど屈辱極まりないはずだ。
(ひ、氷華さん……大丈夫かな……)
ノアが心配そうに見つめる中、リノが錆びた鉄扉をトントンと規則的に叩いた。
ギィ……と鈍い音を立てて小窓が開き、見張りの生徒が怪訝そうに視線を向けてくる。
「……合言葉を」
「『風の導きに平伏せよ』っす。推薦枠、会員番号340番。今日は新しく熱心な信徒候補を連れてきたっす」
リノが慣れた様子で胸の前に手を組み、頭を下げた。
見張りの視線が、後ろの三人に向けられる。
ノアは心の中で(ごめんなさい僕自身なんだけど……!)と誰にともなく詫びながら、ぎこちなく胸の前で手を組んで一礼した。夜々もそれに倣って頭を下げる。
そして、氷華の番。
氷華は一瞬だけフードの奥で目を伏せ、生徒会長としての高い自制心で内なる激情を完全に律した。
そして、胸の前で手を組むと、一切の隙のない完璧な所作で静かに頭を垂れた。
「……『風の導きに平伏せよ』」
その声には不自然な気負いもなく、まるで長年敬虔な祈りを捧げてきた信徒のような、凛とした説得力すら漂っていた。
見張りの生徒は怪しむどころか、その洗練された礼節に小さく息を呑む。
「……よし、熱心な者が来てくれたようだな。入れ」
カチャリと内側の閂が外され、重い鉄扉が開かれた。
四人は目配せを交わし、足音を忍ばせて中へと滑り込む。
(さすが氷華さん……! 悔しいはずなのに、完璧に合わせてくれた……)
ノアが安堵とともに感心していると、すれ違いざま、氷華がフードの隙間からノアだけに聞こえる微かな吐息を漏らした。
「……ノアさん。事態が収束したら、生徒指導室の規定を三倍厳しく改訂します」
「あ、あはは……」
生徒会長の静かなる逆鱗の深さに背筋を凍らせつつ、四人は薄暗い通路の先へと進んだ。
◇
足を踏み入れた旧地下備蓄庫は、異様な静けさと熱気に包まれていた。
壁には緑色の仮面を模した歪なタペストリーが掲げられ、薄暗い空間に数十人の生徒たちが並んでいる。
彼らの首元には昼間に見かけたあの『護符』が下がっており、誰もが焦点の合わない目で正面を見つめていた。
「うわ……想像以上に空気が重いっすね……」
リノが周囲を窺いながら囁く。
部屋の中央、一段高くなった壇上には、豪奢な金糸のローブを纏った男子生徒――外部からの編入生幹部が立っていた。
「同胞たちよ。今宵、翠光様より新たなる導きが下された」
幹部が厳かに告げると、信徒たちが波打つようにざわめく。
幹部は手元の黒いケースを開け、中から鈍い紫色の光を放つ小さなアンプルを取り出した。
「これぞ、翠光様の御神気を抽出・精製した『覚醒薬』である」
(僕の気……!? そんなの出した覚え全然ないんだけど……!)
ノアが内心で息を呑んだ瞬間、隣に立つ氷華の拳が、ギリッと音を立てて握り締められた。
完璧に抑え込んでいた冷気が、わずかに足元の埃を凍りつかせかける。
「……ノアさんの力だと騙り、得体の知れない薬品を……本当によくも……」
「氷華さん、ストップ、足元! ちょっと凍ってるから深呼吸して……!」
ノアが慌てて氷華の手首にそっと触れ、大気の温度を戻して宥める。
だが、壇上の幹部は異変に気づく様子もなく、恍惚とした調子で言葉を続けた。
「これを服用すれば、諸君らの潜在魔力は跳ね上がり、迷いも恐怖も消え去る。そして明日の昼――学園の防衛結界中枢へ突入し、管理コアを停止させるのだ。腐敗した学園を浄化することこそ、翠光様の真の望みである!」
『おお……翠光様……!』
虚ろな信徒たちが、吸い寄せられるように壇上へと手を伸ばす。
その光景を見た瞬間、先ほどまでの気まずさはノアの胸から完全に消え去っていた。
自分の名前を利用し、生徒たちを操り、学園の防衛網を内側から破壊させようとしている。
昼休みの小競り合いも、すべてはこの大規模な工作へ向けた布石だったのだ。
氷華が静かに、レイピアの柄へと指を滑らせる。
その青い瞳には、今すぐにでも壇上へ斬り込みかねない冷徹な怒りが宿っていた。
だが――その手首を、ノアがそっと制止した。
「……ノアさん?」
「氷華さん、待って」
ノアは小声で、極めて冷静に耳打ちした。
「ここで暴れたら、薬を飲まされかけてる生徒たちを巻き込んじゃう。それに、あの幹部を今捕まえても、外部の黒幕にトカゲの尻尾切りで逃げられるかもしれない」
「……っ」
氷華は息を呑み、握りかけた柄からゆっくりと指を離した。
冷静さを取り戻した生徒会長の瞳に戻り、小さく頷く。
「……そうですね。軽率でした。相手の目的も、決行時刻も割れました。……ここは一度退き、盤面を整えるべきです」
「リノちゃん、夜々ちゃん、下がろう」
ノアの合図に、息を殺して様子を窺っていたリノと夜々も頷く。
リノが素早く手元の端末で幹部の顔、アンプルの形状、そして壇上の会話音声を記録し終えていた。
「バッチリ証拠は押さえたっす。……こんな胸糞悪いの、絶対許さないっすよ」
「はい……早く戻って、対策を立てましょう!」
熱狂に包まれ、誰一人として後方に注意を払っていない信徒たちの隙を突き、四人は気配を殺して静かに鉄扉の影へと身を引いた。
◇
旧校舎の裏手を抜け、夜風が吹き抜ける中庭まで戻ったところで、四人は深く息を吐き出した。
「明日の正午、防衛結界中枢の襲撃……。手遅れになる前に知ることができたのは、最大の収穫です」
氷華がローブを脱ぎ、夜風に美しい群青の長髪を揺らしながら言った。
その表情には、先ほどの激情を完全に制御下に置いた、指揮官としての冷徹な鋭さが戻っている。
「今夜のうちに鳴神先生と情報共有を行い、防衛中枢の警護を再編します。明日の昼、愚かな企みごと一網打尽にいたしましょう」
「あたしも、裏掲示板の仲間たちに注意喚起の暗号を流して、これ以上騙される生徒が出ないよう情報戦を仕掛けるっす!」
リノが頼もしげに端末を叩き、夜々も「私も救護の準備、手伝います!」と拳を握る。
ノアは振り返り、闇に沈む旧校舎を見つめた。
夜空の向こう――学園都市の結界の外側から、冷たく湿った不気味な気配が吹き込んできているような気がした。
(利用された生徒たちも、学園も……絶対に傷つけさせない)
明日の正午。
偽りの信仰を打ち砕き、背後に潜む影を暴くための戦いが始まろうとしていた。




