瘴気術式
「――死ねェッ!!」
学食の返却口前、血走った目の男子生徒が、激昂のまま右拳に魔力を凝縮させた。
周囲の生徒たちが悲鳴を上げて身を縮める。まともに直撃すれば、強化テーブルごと吹き飛び、大惨事は免れない。
(だめっ……!)
ノアは咄嗟に右手の指先を小さく弾いた。
風を起こせば目立つ。だからこそ、男子生徒の踏み込んだ右足の直下――そのわずか数センチ四方の大気圧だけを、瞬間的に『完全減圧』した。
スカッ。
「うわっ!?」
空気の足場を奪われた足が不自然に滑り、男子生徒の体勢が大きく崩れる。
放たれかけた魔力の弾丸は天井の換気ダクトへと逸れ、ドンッ! と甲高い金属音を響かせて不発に終わった。
「な、なんだ急に足が……ぐわっ!?」
床に倒れ込んだ生徒の背中を、容赦のない衝撃が踏み砕いた。
「――そこまでです」
凛とした、絶対零度の声が騒然とする学食に響き渡る。
生徒たちの間を割り、静かにレイピアの鞘を鳴らして現れたのは、生徒会長・神薙氷華だった。
背後には腕章を巻いた風紀部隊の精鋭たちが素早く展開し、もう一人の腕章生徒もあっという間に床へ組み伏せていく。
「せ、生徒会長……!?」
「学食内における無許可の魔力行使、および器物損壊未遂。……申し開きは生徒会室で伺いましょう。連れて行きなさい」
「はっ!」
風紀部隊の生徒たちが暴れる二人を両脇から抱え、手際よく拘束して連行していく。
床に転がっていた割れた食器やトレイも、駆けつけた清掃ドローンによって速やかに片付けられていった。
学食に安堵の溜息が広がる中、氷華は足元に落ちていた緑色の小袋――『翠光様護符』を一つ、手袋越しに静かに拾い上げた。
その冷徹な横顔は、普段の完璧な生徒会長の仮面を被っていたが、ノアには分かってしまった。
(ひ、氷華さん……ものすごく怒ってる……!)
周囲の気温がリアルに二、三度下がっているような、底知れぬ威圧感だった。
◆
放課後。人気のない旧校舎の生徒会資料室。
分厚いカーテンが閉め切られた薄暗い部屋の長机の上に、昼休みに押収された護符が置かれた。
周囲を囲むのは、氷華、ノア、リノ、そして夜々の四人。
「……許せませんね」
氷華が静かに口を開いた。その青い瞳の奥で、青白い業火がメラメラと燃え盛っている。
「名誉も富も求めず、ただ純粋に人々を救い続ける孤高の英雄……『翠光様』。その気高きお名前を、あのような薄汚い押し売りと暴力の道具に利用するなど……万死に値します!!」
「神薙会長の言う通りっすよ!」
リノもバンッと机を叩いて身を乗り出した。
「あたしたち初期からの会員はね、配信の切り抜きを布教したり、手作りの痛バを作ったりして、慎ましくも熱く推し活を楽しんでたんすよ! なのにあんな『信じない奴は人間じゃない』なんて狂信者ムーブされたら、界隈全体の民度が地に落ちるっす! 公式にも迷惑がかかるっすよ!!」
「あ、あはは……」
ノアは冷や汗を拭いながら引きつった笑みを浮かべた。
リノも氷華も、怒りの沸点が「翠光様の名誉を汚されたこと」にあるため、当の本人としては恥ずかしさと申し訳なさでいたたまれない。
「あの、氷華さん……その護符、ちょっと見てもいいですか?」
ノアがおずおずと手を伸ばす。
「ええ、気をつけてくださいね」
氷華から受け取った護符に、ノアはそっと『魔力調律』の意識を向けた。
布地を通して内側の術式を読み取った瞬間、ノアの眉がピクリと跳ねた。
「……これ、学生が手作りしたような代物じゃない」
「どういうことですかぁ、ノア先輩?」
夜々が不思議そうに小首を傾げる。
「外見はただの安っぽい刺繍だけど……内側に刻まれてる術式が異常に緻密なんだ。持つ人の精神の興奮状態を少しずつ引き上げて、他人の言葉に暗示にかかりやすくする『精神誘導術式』が何重にも組まれてる。それに……」
ノアは僅かに指先を震わせた。
微弱だが、確かに混ざっている。あの地下で嗅いだ、忌まわしい異臭。
「……微量の、人工的に希釈された『瘴気』の魔素が編み込まれてる」
「瘴気……!?」
氷華の表情が一変した。
「あの御子柴元監査官が使っていたような、危険技術ですか……!?」
「うん。粗悪品に見せかけてるけど、術式の基礎設計が軍用レベルで高度すぎる。とてもじゃないけど、一般の探索科の生徒が思いつきで作れるようなものじゃないよ」
「やっぱり……!」
リノが悔しそうに歯噛みする。
「いま掲示板で事情を調べて見てたんすけど、あの二人、先週翠光教に入ったばかりの一般生徒だったらしいっす。最近入ってきた『外部からの編入生』に『これを身につければダンジョンで恐怖心が消えて成績が上がる』って渡されただけなんだとか……」
「その生徒たち自身も、術式に精神を煽られた被害者、ということですね……」
氷華が腕を組み、冷ややかに思考を巡らせる。
「学園の生徒会として大々的に動けば、背後にいる供給元は即座に証拠を隠滅して逃げ延びるでしょう。……ここは、非公式に動くべきです」
氷華は手元の端末を操作し、裏掲示板――【翠光教・信徒集会所】の画面を開いた。
「今夜、使われていない旧地下備蓄庫で、幹部による『特別昇格儀式』なる集会が開かれるとの情報を掴みました。……リノさん、あなたの会員IDなら、潜入の推薦枠を取れますね?」
「お安い御用っす! 会員番号340番、最古参の意地を見せてやるっすよ!」
リノが胸をドンと叩く。
「決まりですわね。今夜、わたくしたち四人で現場へ潜入し、護符の密造元と首謀者を突き止めます」
氷華が静かに、だが揺るぎない決意を込めてノアを見つめた。
「翠光様の名を騙る不届き者、必ずや白日の下に晒してみせましょう」
「う、うん……! がんばろうね……!」
ノアはコクコクと頷きながら、内心で冷や汗を流していた。
(僕の名前のせいで、こんなことになっちゃって……絶対に、僕の手で止めなきゃ)
◆
一方――。
黄昏に染まる学園都市の最外縁、幾重もの防壁と不可侵結界で閉ざされた境界線。
その森の暗がりに、黒いタクティカルスーツに身を包んだ複数の影が潜んでいた。
胸元には、学園都市のいかなる認可組織とも異なる、鋭利な幾何学模様の企業エンブレム。
『――こちら【ハウンド1】。観測班、学園内部の状況を報告しろ』
無線機へ落とされた男の低い声に、機械的なノイズ混じりの返答が返る。
『攪乱用魔導具の散布、順調に進行中。学食および各校舎での小競り合いが頻発し、生徒会および風紀部隊の警戒リソースは完全に内側へ割かれています』
男は暗視ゴーグルの奥の瞳を細め、遠くにそびえる世界樹の巨木を見上げた。
『上々だ。あの御子柴とかいう狂人が勝手にやらかしてくれたおかげで、学園上層部もギルドも事後処理で手一杯。防衛網の再編が追いついていない今こそ、世界樹の利権を力づくで奪い取る絶好の機会だ』
男は腰の重火器の安全装置を解除し、冷徹に唇を歪めた。
『ガキどものおままごとカルトを存分に暴走させろ。内部が完全に麻痺した瞬間――我々【企業連合混成部隊】が境界線を踏み越える』
通信がプツリと切れる。
夕闇に沈む学園都市の足元で、無邪気な信徒たちの信仰を利用した巨大な侵略の歯車が、静かに噛み合い始めていた。




