闇の青年
学園都市の地下、特務ギルドが管理する高度医療区画。
静まり返った無機質な白の廊下を、ノアは息を切らしながらひたすら走っていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
病室を示すプレートの前に滑り込むように立ち止まる。
スライド式の扉には【特別隔離病棟・2号室】の文字。
取っ手に手を伸ばしかけたノアの指先が、ピタリと止まった。
扉の向こうに、ノワールがいる。
あんなにも必死に助けようと駆け抜けて、一刻も早く会いたかったはずなのに。
いざ目の前に立つと、足が鉛のように重くなり、一歩も動けなくなってしまった。
胸の奥を激しい自責の念が締め付ける。
ノアを守れなかった悔しさに苛まれ続けたノワールの苦しみ。
そして、御子柴に利用され、瘴気に全身を焼かれながら、破壊の怪物へと変貌させられたあの地獄のような苦痛――。
(全部……ぼくのせいだ……)
自分がもっと強ければ。
もっと早く気づいて、あの子を見つけ出していれば。
あんなにもつらい思いを、ノワールに背負わせることはなかったはずなのに。
どんな顔をして会えばいいのか。自分に、あの子の顔を見る資格なんてあるのだろうか。
土壇場で恐怖と罪悪感に震え、立ち尽くすノアの背中に、低く呆れたような声が降ってきた。
「……何突っ立ってんだ、ノア」
「――っ、先生……」
振り返ると、缶コーヒーを片手にした鳴神冴香が立っていた。
先生は眉をひそめ、扉の前に縮こまる愛弟子を見下ろす。
「さっさと入ってやれ。あいつはもう目を覚ましてるぞ」
「で、でも……ぼく……」
ノアは制服のスカートをぎゅっと握りしめ、ぽろぽろと零れそうになる涙を堪えながら、震える声で胸の内を吐き出した。
「ぼくの……せいです。ノワールがあんなに苦しんだのも、誰かを傷つけてしまったのも……全部、ぼくが不甲斐ないから……。あの子に、あんなにひどい目に遭わせちゃったのに……ぼく、どんな顔して会えばいいのか……っ」
俯いて小さく丸まるノアの頭に、バシッと音がするほど乱暴に鳴神先生の手が乗せられた。
わしゃわしゃと容赦なく髪を掻き回される。
「痛っ……先生……?」
「馬鹿野郎」
鳴神先生は煙草の匂いを微かに漂わせながら、ぶっきらぼうに、けれど底抜けに優しい声で言った。
「それだけお前を大切に想って、お前のために狂うほど命を張った奴なんだろうが。そんな奴に、当のお前が顔を合わせないでどうすんだよ」
先生はノアの肩をポンと叩き、口角を柔らかく上げた。
「それだけ地獄を味わった奴に……一番会いたがってる人間に、とびきりのご褒美をくれてやれ」
「ご、ご褒美……」
「ほら、行け!」
ドンッ、と背中を容赦なく押され、開かれた扉の向こうへとノアはつんのめるように放り込まれた。
「わっ……!?」
転びそうになりながら踏みとどまった病室の中。
窓から差し込む柔らかな茜色の夕光の中に、二人の人物がいた。
壁際に腕を組んで佇む獅堂鉄也。
そして――白いシーツの上で、上半身を起こしている黒髪の少年。
その双眸は、暴走していた時のドス黒い赤紫ではなく。
どこか冷たく、けれど澄み切った、あの懐かしい灰色の瞳に戻っていた。
ノアの姿を捉えたノワールは、気まずそうにわずかに視線を逸らし、ポリポリと頬を掻いた。
「……よう」
ぽつりと落とされた、短いたった一言。
いつもぶっきらぼうで、言葉数が少なくて、素直じゃない。
けれどその奥には、ノアが無事であったことへの安堵と温もりが、これでもかというほど詰まっていた。
いつもの――ノアの大切な、ノワールだった。
「――っ、ノワールぅぅぅっ!!」
視界が完全に涙で滲み、ノアの感情のダムが決壊した。
みっともないとか、格好がつかないとか、そんなものは全部吹き飛んでいた。
鼻水も涙もボロボロに垂れ流したぐちゃぐちゃの顔のまま、ノアはベッドへ突進し、ノワールの身体へと真正面から飛びついた。
「うわっ!? おいっ……!」
「ごめんねぇぇっ! ごめんね、ノワールぅっ! うわあああんっ!!」
ベッドがきしみ、ノアはノワールの胸元に顔を埋めてわんわんと大声を上げて泣きじゃくった。
何度も、何度も、擦り切れるほど謝り続ける。
「お、おい……! きたねえな、離れろって! ぐちゃぐちゃの顔を人の服で拭くんじゃねえよ……!」
ノワールは顔を真っ赤にして嫌がるそぶりを見せ、ノアの肩を押し戻そうとする。
けれど、その手には全く力が入っていなかった。
むしろ、服を濡らすノアの背中に回された細い指先は、二度と離すまいとするように、ノアの制服をぎゅっと強く握りしめていた。
強がりと、その裏にある泣き出しそうなほどの愛しさ。
病室にいる大人たちには、その不器用な少年の本音が痛いほど伝わっていた。
ノアの嗚咽がようやく小さなしゃくり上げに変わり、落ち着きを取り戻した頃。
腕を組んでいた獅堂が、静かに口を開いた。
「……落ち着いたか、二人とも」
「ぐすっ……す、すみません……」
ノアがティッシュで顔を拭いながら、恥ずかしそうにノワールの隣に腰掛ける。
獅堂は真剣な眼差しをノワールへ向けた。
「ノワール。現状の診断結果を伝えておく。お前を蝕んでいた瘴気は、ノアの魔力によって完全に除去され、バイタルも安定している。……だが、まだ完全に安全とは言えん」
「……」
「そもそも『精霊』という存在そのものが、この学園都市の歴史において公式に観測・保護された前例がねえんだ。どんな変異が起きるか、まだ誰にも分からん。そこでだ――経過観察も兼ねて、退院後の身元は俺の特務部で預かることにする」
獅堂が視線を鳴神先生へ向けると、先生は肩をすくめた。
「私には、もうすでにこの娘がいるからな」
「そういうこった」と獅堂は頷き、再びノアたちを見据える。
「それから、今後の条件だ。都市の防衛上、そして何よりお前たちの安全のために……これから特務部が進める精霊研究に、ノア、ノワール、両名とも協力してほしい。生体実験なんざさせる気はねえが、魔力の波長や特性のデータ取りには付き合ってもらうぞ」
「はい! もちろんです!」
ノアは迷うことなく、力強く頷いた。
「ノワールがこれからも安全に、ここで生きていけるためなら……ぼく、どんな検査でも研究でも、いくらでも協力します!」
「……チッ」
ノワールは腕を組み、わざとらしく面倒くさそうに溜息を吐いた。
「俺は別にどうでもいいが……ノアがそれでいいなら、付き合ってやる」
不貞腐れたような口調だが、その言葉に拒絶の色はなかった。
獅堂は満足そうに口角をわずかに持ち上げる。
「決まりだな。とりあえずリハビリも兼ねて、あと一ヶ月はこの病室で絶対安静だ。経過が良ければ、一ヶ月後に退院。その後の身の振り方や生活環境については、追って俺たちの方で手配する」
事務的な説明を終えると、獅堂は背を向けポケットに手を突っ込んだ。
「さて……説明は以上だ。冴香、行くぞ。これ以上、家族水入らずの邪魔をしちゃ野暮ってもんだからな」
「わかりました」
鳴神先生がひらひらと手を振り、二人の大人は静かに病室の扉を閉めて出て行った。
カチャリ、と重い扉が閉まり、二人の足音が遠ざかっていく。
病室には、夕暮れの淡い静寂だけが残された。
数秒の沈黙の後――。
「「あの――」」
二人の声が、まったく同じタイミングで重なった。
「あ、ノワールからどうぞ」
「……いや、お前が先言えよ」
お互いに譲り合って視線を泳がせ、気まずそうに唇を結ぶ。
結局、ノワールがふいと窓の外の夕空へ顔を背けながら、ぽつりと口火を切った。
「……悪かった」
シーツの布地をぎゅっと指先で摘み上げ、絞り出すような小さな声。
「お前にも……他の連中にも、大精霊様にも。……迷惑、かけまくった」
暴走していたとはいえ、自分の犯した破壊や、ノアたちを危険に晒した事実は消えない。
その罪悪感が滲み出るような声音に、ノアは優しく首を横に振った。
「ううん、迷惑なんかじゃないよ! ……まあ、フルグルやイグニスあたりには、あとでひとこと文句を言われちゃうかもしれないけど……」
苦笑いしながら頬を掻くノア。
「それより、ノワールこそ本当に大丈夫なの? ……これから、人間としての生活になっちゃうんだよ?」
心配そうに覗き込んでくるノア。
人間社会には、精霊界にはなかった窮屈なルールや常識が無数にある。
「別に問題ねえよ」
ノワールはぶっきらぼうに肩をすくめた。
「ほんとに? 電車に乗るのにもカードがいるし、夜更かししたら怒られるし、学校の勉強だってあるかもしれないし……色んなルールがいっぱいあるんだよ?」
まるで過保護な姉のように指を折って心配を並べ立てるノアに、ノワールは小さく鼻を鳴らした。
「分かってるっての。あのおっさん……獅堂さんから、ある程度は聞いてるよ。……それに、ここにいた方が都合もいいしな」
「都合?」
ノアが不思議そうに小首をかしげる。
ノワールはその問いには答えず、ただ静かに灰色の瞳を伏せた。
二度とあんな絶望を繰り返さないために。
失う恐怖を味わうくらいなら、人間のルールだろうが何だろうがいくらでも従う。一番近くで、ノアを守り続けるために。
そんな青年の秘めた決意などつゆ知らず、ノアは呑気に首を捻っていた。
ガララッと、容赦のない音を立てて再び扉が開いた。
「おいノア、まだいるか?そろそろ寮の門限だぞ」
顔を覗かせたのは、時計に目を落とした鳴神先生だった。
「うぇっ!? も、もうそんな時間……っ!?」
ノアは慌てて飛び起き、散らかっていたバッグを抱えてドタバタと身支度を整える。
「ノワール、また明日も学校が終わったらすぐお見舞いに来るからね! 食べたいものがあったらメッセージ送って!」
「お、おい、そんな毎日来なくていいって……!」
「それじゃあ先生!帰りまーす!」
嵐のように手を振りながら、ノアは病室を駆け出していった。
パタンと扉が閉まり、再び静けさが戻ってきた病室。
鳴神先生は部屋の真ん中まで歩み寄ると、ポケットに手を突っ込み、ベッドの上のノワールを見下ろした。
「……まあ、なんだ」
先生は少し気恥ずかしそうに視線を逸らし、ぶっきらぼうに告げる。
「これから先、慣れない人間社会で色々大変かもしれんが……お前とノアのことは、私らがちゃんと面倒を見てやる。だから安心して、しっかり研究のモルモットになってくれ」
悪戯っぽく笑う先生の口調から、それが照れ隠しの冗談であることをノワールもすぐに察した。
「……はい」
ノワールは短く、けれど素直に頷いた。
ノアがいなくなった静かな病室。
二人の間にはどこか照れくさい気まずさが漂っていたが、その空気は決して冷たいものではなかった。
失われていた日常が、少しずつ、けれど確かに戻ってきたことを告げるような、穏やかで温かい気配が部屋を満たしていた。




