紅蓮のぬくもり
秋晴れの心地よい昼休み。
中庭のベンチで、ノアはリノや夜々と共にお弁当を広げていた。
「んん〜! ノアちゃん特製の卵焼き、甘くてふわっふわで最高っす! 推しの手料理が食べられる世界線、マジ世界樹の神様に感謝っすよ……!」
「リノさん、そんなにいっぱいお行儀が悪いですぅ。……でも、本当においしいですね、ノアさん」
「えへへ、ふたりとも喜んでくれてよかった」
平和そのものの女子会。
箸を動かしながらノアが微笑んでいた――その時だった。
「――確保ですわぁ!!」
「ひゃああっ!?」
突如として背後の植え込みから黒服のメイドたちが複数名飛び出し、ノアの両脇を鮮やかにホールドした。
「ちょ、ちょっと!? 何事っすか!? 推しがまた白昼堂々拉致られてるっす!!」
リノが箸を取り落として叫ぶ。
メイドたちの間を優雅に割って現れたのは、美しく結い上げた金髪のハーフアップを揺らした名門令嬢――クラリス・フォン・ローゼンバーグだった。
「ごきげんよう、ノアさん。少々お時間をいただきますわよ」
「ク、クラリスさん!? えっ、ちょ、どこへ連れて行くのぉぉお――!?」
バタバタと足をバタつかせるノアを抱え、メイド隊は一糸乱れぬ動きで中庭を疾走していった。
◇
連れてこられたのは、高等部専用の第一屋内訓練場だった。
周囲には幾重もの強力な防護障壁が展開されており、天井も床も魔導強化合金で固められている。
「……あの、クラリスさん? ここは一体……」
解放されて制服のシワを直すノアに、クラリスは優雅に歩み寄り、模擬戦用の白銀の魔法杖をピシリと突きつけた。
「決まっておりますでしょう。――わたくしと、今度こそ正真正銘の真剣勝負をしていただきますわ」
「ええっ!?」
目を丸くするノアに、クラリスは勝ち誇ったように一枚の羊皮紙をひらひらと見せつけた。
「安心なさい。あの時のような無断の決闘騒ぎを起こして、神薙生徒会長に三時間もお小言を食らうようなヘマは二度といたしませんわ。鳴神教官と生徒会長、両名のサイン入りの【特別模擬戦許可証】です! これなら文句は言わせませんことよ」
「うぐっ……」
「あの時は上手くはぐらかして逃げてくれましたけれど……もう、仮面で正体を隠す必要も、手加減する言い訳もありませんわよね? 『翠光の仮面』様」
クラリスは紅の瞳をギラリと細め、挑発的に微笑んだ。
「最初から怪しいと睨んでいたわたくしの目は間違っていませんでしたのよ。いつ尻尾を掴んでやろうかと観察していたのに、学園祭のあの土壇場で堂々と正体を明かしてくださって! あの孤高の英雄が、こんな小動物のように愛らしい後輩だったと確定した時のわたくしの衝撃、お分かりになりますこと!?」
「え、ええと……」
「ずっと隠し通して、わたくしを煙に巻いてくれたお礼ですわ! わたくしが追い求めた背中が本物だったと、今度こそこの身で確かめさせていただきます! ……全力でいらっしゃいな、ノアさん!」
その気迫に気圧され、ノアも小さく息を呑む。
これ以上断るのは、彼女の誇りを傷つけるだけだ。
「……分かりました。あの時のお返事、今度こそ全力でお相手します、クラリスさん」
ノアが両手を自然に下ろすと、足元からふわりと翡翠の気流が立ち上り、周囲の大気圧が微かに揺らいだ。
壁際に控えていたメイド長が一礼し、右手を高く掲げる。
「――特別模擬戦、規定に基づき進行いたします。双方、位置へ」
二人が距離を取り、訓練場の中央で視線を交錯させる。
「これより開始いたします……始めッ!!」
メイド長の手が振り下ろされた瞬間――。
ゴオォォォォッ!!
訓練場の空気が、一瞬で超高熱の地獄へと変貌した。
クラリスの魔法杖から放たれたのは、牽制などという生半可なものではない。螺旋を描いて空間を焼き尽くす、純度百パーセントの紅蓮の劫火。
「速い……っ!?」
ノアは宙を蹴るようにして跳躍する。
足元の大気密度を瞬間的に高めて足場を作り、爆風の余波を気流の層で逸らすが、熱波だけで制服の裾が焦げそうになる。
(威力だけじゃない……軌道の制御、魔力の収束速度……全部が桁外れだ……!)
「逃がしませんわ! 【紅蓮の鎖】!」
クラリスの杖の一振りで、床を這う炎が数千の蛇のように枝分かれし、ノアの逃げ道を全方位から塞ぎにかかる。
容赦のない、完璧な包囲殲滅陣。
「くっ……!」
ノアが両手を左右へ広げ、大気の流れを強引に掴み取った。
「――集まれ!」
ドォンッ!!
訓練場内の気圧が瞬時に逆転する。迫り来る炎の鎖から酸素を奪い取るように気流を巻き上げ、大気の壁を衝突させて爆風を相殺。炎の結界を力ずくで霧散させた。
だが――相殺の白煙を突き破り、クラリスの追撃がすでに完成していた。
「甘いですわ、ノアさん! 打ち消されることなど織り込み済みです! 【緋焔の豪雨】!」
クラリスの詠唱とともに、天井付近に展開された数十もの火球陣から、超高熱の火炎弾が無数に降り注ぐ。
雨あられのように視界を埋め尽くす弾幕。
学園都市でもわずか数名しかいない『Sクラス探索者』――その広域殲滅能力の真骨頂が、牙を剥いた。
「っ……!」
ノアは着地と同時に両腕をクロスさせ、周囲の大気圧を極限まで引き上げた。
『大気障壁』。
翡翠の渦が半球状に展開し、直撃した火炎弾が次々と甲高い破裂音を立てて弾け飛ぶ。
しかし、一発一発の威力が重い。障壁越しに伝わる熱量と衝撃で、足元の魔導強化床がバキバキとひび割れていく。
(防戦一方じゃ、さすがにもたない……!)
ノアは障壁を維持しながら、指先をわずかに動かした。
降り注ぐ火炎の軌道、その間隙を縫う微細な空気の歪みを読み取る。
「そこ……!」
障壁をパッと解除した瞬間、ノアは空気を圧縮して真横へ超低空ステップを踏んだ。
爆心地をすり抜け、大気の潮流を自らの身体に纏わせる。空気抵抗をゼロにし、追い風に乗ることで、視界から消えたと錯覚させるほどの超高速移動。
一瞬でクラリスの左側面へと回り込む。
「刃を……!」
ノアの手刀に沿って、不可視の気流の刃が鋭利に走る。
「読めていましてよ!!」
だが、クラリスは一切動じていなかった。
驚異的な戦闘勘。視界の外からの強襲に対し、彼女は振り向くことすらなく、左手の平からゼロ距離で火炎を爆ぜさせた。
自爆すら辞さないカウンターの推進力でノアの斬撃をミリ単位で紙一重回避し、そのまま魔法杖をノアの眼前へ突きつける。
「【灼熱の抱擁】!!」
至近距離から解き放たれる極大の熱線。
まともに食らえば防護結界ごと消し炭にされる。
(――手加減なんて、絶対に通用しない!)
ノアの翡翠の瞳が、冴え冴えとした輝きを放った。
「――凪げ」
ノアが右手で虚空を掴むと同時に、クラリスの杖の周囲数十センチの空気を『完全真空』へと引きずり込んだ。
酸素を失った超高熱の炎が、発射の直前、シュゥゥ……と音を立てて一瞬だけ失速する。
「なっ……魔力を帯びた炎を、不完全燃焼に……!?」
クラリスの紅の瞳が驚愕に見開かれた。
その一瞬の隙。
ノアは全身の魔力を右腕に集約し、訓練場全体の気圧を巻き込むようにして掌を突き出した。
「吹き飛んで――!」
ドガァァァァァッ!!
真空の反動と、一気に押し寄せた大気の暴風が合致し、超高密度の衝撃波がクラリスの魔法杖を直撃した。
大気の圧縮と膨張による破壊力。
パキィンッ――ガラララランッ!!
激しい火花とともに、白銀の魔法杖が根元から真っ二つに叩き折れ、金属片が床に散らばった。
「そこまで! 武器破壊により、勝者ノア様!」
壁際からメイド長の声が凛と響き渡り、激闘の終了を告げた。
◇
「はぁっ……はぁっ……はぁ……」
杖の先端を失い、クラリスはその場にペタンとへたり込んだ。
額には玉の汗が浮かび、綺麗に整えられていた金髪のハーフアップも乱れ、肩へとこぼれ落ちている。
「……わたくしの、負けですわ……」
悔しそうに唇を噛むクラリス。
「クラリスさん、大丈夫ですか……?」
息を整えながら、ノアが手を差し伸べようと歩み寄る。
だが、大気の精密操作に全魔力を注ぎ込み、Sクラスの猛攻を紙一重で凌ぎ切った反動は凄まじく、踏み出したノアの膝がガクリと脱力してしまった。
「あっ――」
「えっ、ノアさん!?」
視界がグラリと傾き、ノアの身体は前へと倒れ込んだ。
そのまま――。
ボフッ。
驚いて受け止めようとしたクラリスの胸元へ、ノアの顔が真正面からダイブした。
「……ふぇ?」
ノアの鼻先を、甘い薔薇の香りと、想像を絶する柔らかさと弾力が包み込んだ。
(あ、あれ……?)
ぼんやりとした頭で、ノアは思考を巡らせる。
普段のクラリスは、細身のローブや上品なコルセットで身体のラインを引き締めているため、鳴神先生やクローディア、氷華といった、誰が見ても「出るところが出まくっている」規格外の面々に比べると、少し控えめに見えていたはずだった。
だが、至近距離で押し付けられて分かる。
――しっかりとした質量を持っている。
むしろ、柔らかさと形の美しさで言えば、とんでもない破壊力を秘めていた。
「わ、わわわっ……!? ご、ごめんなさいクラリスさん! 足に力が入らなくて――!」
血の気が引いて真っ赤になったノアが、慌てて飛び起きようと身悶えする。
しかし。
クラリスの手が、ふわりとノアの後頭部に回された。
「……っ」
「ク、クラリスさん……?」
見上げると、クラリスの顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。
紅の瞳を激しく泳がせながら、フイと横を向く。
「……べ、別に……少しくらいなら、このままでも構いませんわ」
「えっ?」
「あ、あなたには……その、お世話になりまくっておりますから! これくらい、疲労困憊のあなたへの……そ、そう、ローゼンバーグ家としての特別待遇、慈悲ですわ! 他意はありませんことよ!」
早口で取ってつけたような言い訳を並べ立てるクラリス。
けれど、後頭部を抱き寄せるその手はとても優しく、ぽすぽすとノアの背中を撫でていた。
ノアの耳元に、トクトクと激しく跳ねるクラリスの心音が直に伝わってくる。
「……あたたかいです、クラリスさん」
ノアが観念して力を抜き、胸元にすり寄ると、クラリスは「ひゃっ」と小さく肩を跳ねさせた。
「も、もう……調子に乗りませんよう……!」
クラリスはぎゅっとノアを抱きしめ直しながら、悔しそうに、けれど誇らしげに目を細めた。
「ですが、覚えていらっしゃいな。……次は必ず、精霊であろうとあなたに土をつけてみせますわ」
「ふふ……はい。楽しみに待ってますね」
防護結界に包まれた静かな訓練場で、ふたりは心地よい疲労と温もりを分け合いながら、しばらくそのまま重なり合っていた。
◇
「――で? 二人とも、何か言い残すことはあるか?」
放課後。
惨劇の舞台となった第一訓練場の中央で、ノアとクラリスは揃って床に正座させられていた。
ふたりの前には、腕を組み、額に青筋を浮かべて仁王立ちする鳴神冴香。
そしてその隣には、分厚いバインダーを抱え、冷気すら帯びた絶対零度の眼差しで見下ろす生徒会長・神薙氷華の姿があった。
周囲を見渡せば――。
魔導強化合金の床は粉々に砕け散り、壁の防護障壁発生器からは黒煙がプスプスと上がっている。まるで巨大な隕石でも落ちてきたかのような有様だった。
「も、模擬戦の申請許可書は……ちゃんと通してありますわ!」
クラリスが正座のまま、精いっぱいのプライドを保とうと主張する。
「ああ、確かにサインしたのは私と神薙だ」
鳴神先生がこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。
「だがなァ……誰が『高等部が誇る最新鋭の屋内訓練場を丸ごと一つスクラップにしろ』と許可した!? 修復費用の概算を見て私の胃にどれだけの穴が空いたと思っている!!」
「うぐっ……!」
「クラリスさん」
氷華がすっとバインダーを掲げ、事務的かつ容赦のない声音で告げる。
「正規の模擬戦であったとしても、限度というものがあります。器物破損および施設損壊の始末書、並びに今週末の全訓練施設の清掃奉仕活動……生徒会および教官室の連名で、正式に決定いたしました」
「そ、そんな……! わたくしが雑巾がけですの!?」
絶望に目を見開くクラリス。
「ノア」
「は、はいっ!」
びしっと背筋を伸ばすノアに、鳴神先生がジト目を向けた。
「お前もだ。相手の攻撃をいなすまではいいが、大気の圧縮で施設の柱にヒビを入れたな。……連帯責任だ。二人仲良くピカピカに磨き上げろ」
「うぅ……ごめんなさい……」
しょんぼりと耳を垂れるように項垂れるノアと、顔を真っ赤にして唇を尖らせるクラリス。
並んで怒られる二人の間には、さっきまでの激闘の熱気と、どこか心地よい連帯感が確かに残っていた。




