私のヒーロー
夜の静寂が下りた自室。
間接照明だけが灯る薄暗い部屋で、神薙氷華はベッドの上に正座し、手元の情報端末を見つめていた。
画面に映し出されているのは、探索者ネットの片隅にある非公式掲示板――【翠光教・信徒集会所】。
学園都市に、突如として現れた規格外の風の精霊を「神」と崇める者たちが夜な夜な集う場所だ。
氷華はこの掲示板の最古参であり、古参コテハン【氷雪の巡礼者】として、日々その神々しさを布教し、考察を書き連ねてきた。
画面をスクロールする指が、ふと止まる。
あの激動の学園祭、そして旧資材区でのノワール救出戦から、二日が経過していた。
学校はいつも通りの日常に戻り、生徒会の執務も滞りなくこなした。
ノアとも、いつも通りに、何気ない言葉を交わしたはずだった。
なのに。
ぼんやりと画面を見つめていた氷華の脳裏に、数日前の光景が突如として鮮明にフラッシュバックした。
……え?
……えええぇぇぇぇぇええええ!?
「ひゃっ!?」
思わず口から情けない悲鳴が零れ、氷華は端末を取り落としそうになった。
ノアさんと、翠光様が……同一人物?
かつて合同実習で、絶望的な瘴気モンスターから自分を救い出してくれた、あの翠光様。
夜風に靡く、ほのかに翠の燐光を帯びた、息を呑むほど美しい白銀の髪。
圧倒的な気圧で空間を制覇し、誰をも寄せ付けない孤高の美しい後ろ姿。
それが。
いつも初等部のブカブカな制服を着て、小動物のようにちょこちょこと後ろをついて歩き、褒められると耳まで赤くしてハニカむ、あのノアさん……?
同じ人? あの子が……あの神が!?
「……嘘でしょう……?」
冷たいシーツをぎゅっと握りしめる。
一度意識してしまうと、もう駄目だった。
翡翠の瞳、鈴を転がすような澄んだ声、小柄な背丈、風を纏う癖――すべてが、恐ろしいほどの精度で完全に一致していた。
「わ、私は……今まで、神に対して……!?」
頭を抱え、ベッドの上でゴロゴロと身悶えする氷華。
その夜、学園都市の才色兼備と名高い生徒会長は、朝を迎えるまで一睡もできなかった。
◇
それからの二日間、氷華の挙動不審さは極致に達していた。
「あ、あの……氷華さん? 今日の提出書類、ここに置いておきますね」
「ッ!? は、はい! か、感謝いたしますノアさん! あ、いえ、滅相もありません! そのまま、そこに……!」
「えっ……? あ、はい……」
生徒会室でノアが歩み寄ってくるだけで、氷華はバッと飛び退くように距離を取ってしまう。
目を合わせようとすれば、視線を泳がせて明後日の方向の壁を凝視する始末。
(……やっぱり、ずっと隠してたこと……怒ってるのかな?)
避けられている。
明らかに、氷華の態度がよそよそしい。
ノアは胸の奥がキュッと締め付けられるような不安を抱えたまま、放課後を迎えていた。
◇
世界樹ダンジョン第22層――蒼氷の回廊。
キィィィン……と冷気が張り詰めるクリスタルの洞窟の中を、氷華は一人、鋭い足取りで進んでいた。
生徒会に寄せられた、はぐれ変異種の掃討任務。
荒ぶる思考を冷却するため、あえて単身で潜り、剣を振るうことを選んだのだ。
「ふぅ……集中しなければ」
氷華がレイピアに手をかけ、曲がり角を曲がった――その瞬間。
「……あ」
「……え?」
前方にいた『先客』と、真正面から鉢合わせた。
純白の無機質な仮面。
風を孕んでふわりと揺れる、白銀の長い髪。
手には風の魔力を凝縮させた翠光の刃。
「す、翠光……ノア、さん……!?」
「ひ、氷華さん!?」
気まずさのあまり、氷の回廊に凍りつくような沈黙が落ちた。
ノアは思わず仮面に手を当ててオロオロとし、氷華は背筋を直立不動に伸ばして固まる。
ふたりは、全く同じ討伐対象を追って、この場所でばったり出会ってしまったのだ。
「あ、あの……これは、その……」
ノアがどう言い訳すべきか焦り、仮面の下で冷や汗を流した――その時だった。
『グルルルァァァッ!!』
洞窟の天井を突き破り、濃密な瘴気を纏った巨大な氷甲獣がドスンと雪崩れ込んできた。
討伐対象の変異種だ。紫黒のオーラを滾らせ、鋭利な氷の牙を剥き出しにしてふたりへと襲いかかる。
「っ……!」
「氷華さん!」
言葉を交わす暇などなかった。
けれど――長きにわたる実習と、あの学園祭の死闘を共に駆け抜けたふたりの身体は、考えるよりも早く動いていた。
「風よ――」
ノアが地を蹴り、翠の突風でモンスターの死角へと回り込む。
視界を奪われ、巨躯を狂乱させて暴れる獣。
「合わせます……【氷縛穿孔】!」
氷華のレイピアが神速の刺突を放つ。
ノアの風が誘導したその一点――モンスターの足元へ極限の冷気が叩き込まれ、巨体が地面ごとガッチリと氷結・固定された。
完全に隙を晒した核へ、ノアが跳躍する。
「はぁぁッ!」
一閃。
翠の光刃が紫黒の瘴気核を綺麗に両断し、モンスターは断末魔を上げる間もなく、青白い光の塵となって霧散していった。
完璧な、一瞬の連係。
息を乱すことすらなく、二人の呼吸は恐ろしいほどぴったりと重なり合っていた。
◇
ダンジョンの静寂が戻る。
砕け散る氷の粒子がキラキラと舞う中、ふたりの間に再び沈黙が落ちた。
ノアはおずおずと、顔を隠していた白い仮面を外す。
露わになったのは、申し訳なさそうに眉を下げた、いつもの愛らしい少女の顔だった。
「あの……氷華さん。ずっと、黙っててごめんなさい。僕が――」
ノアが弁明しようと声を絞り出した瞬間。
氷華が、ふっと小さく息を吐いて口を開いた。
「……ずっと、憧れだったんです」
「え……?」
氷華はレイピアを鞘に収め、洞窟の天井に輝くクリスタルを見つめていた。
その横顔は、生徒会長としての威厳ではなく、どこか幼い少女のような寂しさを湛えていた。
「私の一族は、代々検事や高官を輩出してきた家系でした。兄もまた、若くして司法の道へ進み、何でも完璧にこなす人でした。……私も、同じレールに乗るはずだったんです」
氷華の声が、静かに回廊へ染み渡る。
「でも、駄目でした。何でも器用にこなす兄と違い、私は勉強も武芸も、血を吐くような努力をして……必死に爪を立てて、やっと追いつける程度でした。同じレールの上に立ち続けることすら、私にはあまりにも重すぎた。……少しずつ引き離され、やがて心が折れて、私は敷かれたレールから転がり落ちました」
自嘲するように、氷華は小さく微笑む。
「落ちこぼれでした。ですが……それでも、諦めきれないものがありました。幼い頃に見た、アニメの魔法少女や、特撮のヒーロー。『正義を守りたい』『誰かを救える強い人になりたい』という想いだけは、どうしても捨てられなかったんです」
氷華の視線が、ゆっくりとノアへと向けられた。
「幸いにも、私には魔法の才能だけはありました。だから家を飛び出し、この学園都市へとやってきた。生徒会長になったのも……誰かを守れる、理想の自分になりたかったからです。……そんな私の前に、あの人が現れました」
氷華の碧い瞳が、熱を帯びて潤む。
「圧倒的な力で、名も名乗らず、ただ困っている人を見捨てずに駆けつける風のヒーロー。……翠光様は、私がずっと憧れ、挫折の果てに目指していた理想のそのものでした」
ノアは息を呑み、胸元をぎゅっと握りしめた。
かつて無能だと蔑まれ、お荷物として奈落へ落とされた自分。
誰かの役に立ちたい、誰かを助けたいと必死に足掻いてきた自分の歩みが、目の前の気高い少女の「光」になっていた。
「だから……その正体がノアさんだと気づいた時、本当に驚きました。……神様だと思っていた人が、こんなにも身近にいて、いつも一生懸命でお茶目で……」
氷華はそこまで言うと、ふっと肩の力を抜き、照れくさそうに笑った。
その表情は、いつもの完璧な生徒会長の顔ではなく、年相応の、たまらなく魅力的な少女の笑顔だった。
「でも、よく考えてみれば……最初からずっと、重なっていたんですよね。困っている人を放っておけないところも、優しいところも。……ふふ、どうして今まで気づかなかったんでしょうね?」
悪戯っぽく首を傾げて笑いかける氷華。
その無防備で透き通るような笑顔に、ノアはカッと顔が熱くなるのを感じた。
「ひ、氷華さん……」
恥ずかしさで頬を林檎のように赤く染め、俯いてしまうノア。
そんなノアの姿を見て、氷華は一歩歩み寄り、その小さな手を両手で優しく包み込んだ。
「……気づいてからは、ちょっと照れくさくて、しばらく避けちゃってました。……ごめんなさいね?」
「でも、もう避けたりしません。……神様としてではなく、私の大切な仲間として、背中を預けさせてくださいね、ノアさん」
「……っ、はい! よろしくお願いします、氷華さん!」
二人の間にあったぎこちなさは、氷の回廊を吹き抜ける柔らかな風の中に、綺麗に溶けて消えていった。




