たった一人の英雄
世界樹の木漏れ日は、いつも眩しすぎて嫌いだった。
五大精霊たちの後に、世界樹の揺り籠から零れ落ちるようにして生まれた俺と、光の精霊。
生まれたばかりの俺たちの性質はあまりにも不安定で、極端だった。
光は誰からも愛される優等生で、世界樹の枝葉を照らしてはみんなに笑いかけていた。
それに引き換え、闇を司る俺は誰とも上手く話せず、感情をどう顔に出せばいいのかも分からなくて、いつも冷たい木の根の影に蹲っていた。
『――もう、イグニス! 喧嘩を売っちゃだめでしょ!』
そんな俺たちの世話を買って出てくれたのが、小さな風の少女だった。
『ノワールも、影に隠れてないでおいで? ほら、お姉ちゃんのところにいらっしゃい』
プンスカと怒るイグニスの頭をポカリと叩き、光が無邪気に抱きつく横で、彼女は俺の手を引いて日向へと連れ出してくれた。
魔法を上手く使えたときは、自分のことのように目を輝かせて褒めてくれた。
光みたいに上手に笑えなかったし、「大好き」なんて言葉は一度も口にできなかったけれど、頭を撫でてくれるあの小さな掌の温もりだけが、俺の世界のすべてだった。
そんな平穏を切り裂いたのが、地下最奥区画に蠢く【深淵の怪物】との決戦だった。
大精霊マグナ・マテル様、五大精霊、そして俺たち。
世界樹の全戦力を挙げた死闘の最中、光が行方を眩ませ、俺は怪物の放った黒い爪牙に引き裂かれた。
内臓が焼けるような激痛。冷たい床に崩れ落ち、視界が闇に染まりかける中――俺の前に、あの華奢な背中が割り込んできた。
『ノワールには……指一本、触れさせない……ッ!』
ドスッ、と鈍い音が響いた。
怪物の鋭利な触手が、彼女の小さなお腹を無慈悲に貫いていた。
ぽっかりと空いた風穴から、翡翠の命の光が激しく零れ落ちていく。
――なんで。
どうして、俺なんかを庇うんだ。
叫ぼうとした俺の声は血に塗れて喉から出なかった。
彼女は激痛に膝を屈することなく、小さな両手を天へと掲げ、自らの命の炎をすべて薪にして、怪物を縛る最後の封印術式を起動させた。
『ノ……ア……ッ!』
伸ばした俺の指先は空を切り、そのまま意識は暗い底へと沈んでいった。
◇
目を覚ました時、彼女の姿はどこにもなかった。
ただ、冷え切った宝玉の欠片だけが、静かに世界樹の底に転がっていたと聞かされた。
俺のせいだ。
俺が弱かったから。俺が上手く立ち回れなかったから、お姉ちゃんに風穴を開けさせて、死なせてしまったんだ。
後悔と自責の念が、何百年分もの毒のように俺の魂を焼き続けた。
だから――あの日、最奥の封印が軋み、怪物が再び蠢き始めた気配を感じ取った時、迷いはなかった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
俺の命なんてどうでもいい。あのお姉ちゃんが、命を賭して遺してくれたこの世界を、俺が護らなきゃいけない。
誰にも告げず、俺は一人で深淵の封印を強化するために暗黒の階層へと降り立った。
けれど、そこで待っていたのは怪物ではなく――人間たちだった。
『見つけたぞ、極上の触媒だ』
◇
――意識が深く沈んでいく中、僕の視界は、冷たく淀んだ暗黒の泥濘に染まっていた。
魂の波長を重ね合わせた瞬間、流れ込んできたのは、耐え難いほどの激痛と孤独。
あの日、僕が深淵の怪物の前でお腹を貫かれ、眠りについた後のこと。
残されたノワールがどれほどの自責に苛まれ、一人で世界を守ろうとしてくれたのか――その記憶の断片が、胸を締め付けるように伝わってきた。
(……ごめんね、ノワール)
ずっと苦しかったはずだ。
痛くて、寒くて、誰も信じられなくなって。
暗い泥の底で膝を抱え、耳を塞いで震えている小さな影。
僕は、その影の元へと真っ直ぐに歩み寄った。
「――もう、大丈夫」
澄んだ風の音とともに、泥濘の底へと膝をつく。
驚いて顔を上げたノワールは、怯えたように身を引こうとした。
『だ……れ……? ちかよるな……おれは、ばけものだ……!』
「化け物なんかじゃないよ」
僕は両手を伸ばし、泥と涙にまみれたノワールの冷たい頬を、そっと優しく包み込んだ。
「ありがとう……ノワール」
ノワールの濁っていた紅い瞳が、大きく見開かれる。
そして、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちた。
『……お……ねえ、ちゃん……?』
「もう絶対に一人にしないよ」
僕が抱きしめると、胸の奥底で固く凍りついていた黒く濁った氷が、パキリと音を立てて砕け散った。
カァッ……!!
僕の体を通じて、全精霊の魔力が溢れ出していく。
そして、大精霊様の温かな光が、ふたりを包み込んだ。
『……あ、りが……とう……おねえ、ちゃん……』
ノワールの小さな呟きとともに、暗闇は完全に消え去り、精神世界は眩い新緑と青空の光で満たされていった。
◇
旧資材集積区画を包み込んでいた眩い虹色の光の奔流が、穏やかなそよ風となって地上へと溶けていく。
バシュゥゥゥ……と音を立てて、周囲を埋め尽くしていた瘴気の分裂獣たちが青白い燐光の粒子となって霧散していった。
張り詰めていた重苦しい気圧が消え去り、秋の澄み切った風が吹き抜ける。
「……う、あ……」
光の中心で、拘束を解かれた黒き獣の輪郭が揺らめいた。
硬化していた漆黒の外殻が剥がれ落ち、鋭利な爪が縮み――現れたのは、ボロボロの衣服を纏った、黒髪の青年の姿だった。
糸が切れたように、青年が前のめりに倒れ込む。
「っと……!」
ノアは小さな体いっぱいで、倒れてきた青年の体を正面からしっかりと受け止めた。
ずしりと腕に伝わってくる確かな重み。
首筋に触れる、トクン、トクンと穏やかに刻まれる生きた心音と、規則正しい寝息。
暴走は、完全に鎮まっていた。
「……よかった……っ」
ノアはその場にへたり込みながら、青年を抱きしめて胸を撫で下ろした。
全身の魔力を使い果たした器の反動で、自身の視界もチカチカと白く滲んでいる。
「ノアさんッ!!」
「ノアッ!!」
土煙をかき分け、氷華さん、クラリスさん、クローディアさん、マリンちゃんが駆け寄ってきた。
全員、制服やローブは破れ、煤だらけで満身創痍だったけれど、その顔には心からの安堵と笑顔が広がっていた。
「あの子……元に戻ったんですのね……!」
クラリスさんが膝をついて胸に手を当てる。
「大したもんだよ、ホントにやり遂げちまいやがった……!」
クローディアさんが笑いながら、大剣を地面に預けて座り込んだ。
「バイタル正常……瘴気反応、完全消失だよ……!」
マリンちゃんが端末を抱きしめて涙ぐみ、氷華さんは僕の手を強く握りしめてくれた。
「よく頑張りましたね、ノアさん……!」
周囲を取り囲んでいた警備隊や迎撃部隊の兵士たちは、ただ呆然と立ち尽くし、構えていた銃口を力なく下ろしていた。
怪異を殲滅することしか頭になかった大人たちが、目の前で起きた光景に、完全に言葉を失っていた。
カツ、カツ、と重い足音が近づいてくる。
煙草を咥えた獅堂部長が、両腕のガントレットを解除しながら歩み寄ってきた。
その後ろには、刀を鞘に納めた鳴神先生、大盾を下ろしたボルドー大先輩、息を整えるレオンさんとシエラさんの姿もある。
「……おいおい」
獅堂部長は煙を一つ吐き出し、倒れている青年と、泥だらけで身を寄せ合う僕たちを見下ろした。
その精悍な顔が、無骨で、これ以上なく誇らしげな笑みに崩れる。
「上出来すぎるじゃねえか、ガキども。……大人の面目、丸潰れだな」
「部長」
鳴神先生が隣に並び、静かに息を吐いた。
「言ったでしょう。私の自慢の生徒たちだと」
「ケッ、聞いてねえよそんなこと!」
獅堂部長は豪快に笑い飛ばすと、背後の警備部隊へ向けて親指をクイと振った。
「おい、突っ立ってねえで担架と医療班を回せ! こっちの小僧も、ガキどもも全員重傷だ! これ以上の野暮な尋問は俺が許さん、全員さっさと病棟へ叩き込め!」
「は、はいッ!」
秋の高い空から、心地よい日差しが降り注いでいた。
遮音フェンスの向こう側からは、変わることのない陽気な音楽と、学園祭を楽しむ人々の歓声が微かに響いてくる。
世界を守り、大切な弟を救い出した。
誰にも知られることのない、けれど最高に誇らしい戦いが、ここに完全な終わりを告げた。




