影の蠢動
『大蒼樹祭』開幕まで、あと三日。
学園都市のメインストリートには色鮮やかな万国旗が渡され、広場では特設ステージや屋台の骨組みが次々と組み上がっていく。
街中が浮き立つような高揚感に包まれる中――夕暮れ時の学生寮の屋上で、ノアは一人、手すりに手をかけて佇んでいた。
(……なんだろう、この感じ)
夕陽に染まる海を眺めながら、ノアは目を細め、『大気統律』の感覚を都市全域へと静かに広げた。
吹き抜けていくのは、いつも通りの心地よい潮風。
けれど、その風の底に――ほんのわずか、舌の根が痺れるような異臭が混ざり込んでいる。
地下階層、そしてあの半モンスターの姿へと変異していたノワールの周囲に漂っていたのと、全く同じ。
ドス黒く澱んだ、深淵の瘴気の残滓。
(都市の外縁……港湾区の古い倉庫街のあたりから、薄く流れ込んできてる……?)
胸騒ぎを覚え、ノアは翡翠の瞳をかすかに曇らせた。
ノワール本人の気配ではない。もっと雑で、無秩序な悪意の集まりのような――。
『ノア、気づいたかしら?』
ふわりと隣に顕現したアクアリアが、憂いを帯びた瞳で海を見つめる。
『海風の中に、嫌な澱みが混ざっているわ』
「うん……ノワールのものと似てるけど、あの子じゃない。何かが、この街の底で蠢いてる気がする……」
ノアは小さく拳を握りしめ、赤く染まる街並みを見つめた。
◇
同じ頃――学園都市中枢、教職員棟の最上階。
『立入禁止』の札が掛けられた鳴神冴香の私室には、通常の学校関係者ではない、場違いな殺気を纏った猛者たちが音もなく集結していた。
ドカリと壁際に腰を下ろし、巨大な戦斧の刃を布で拭うボルドー。
部屋の隅、照明の影に溶け込むように腕を組み、鋭い眼光を光らせるレオン。
そして、デスクの端末で暗号データをスクロールするシエラ。
かつて鳴神と共に数々の深層を踏破し、現在はギルドの特務部隊として裏仕事を請け負う、現役最高峰のプロ探索者チームの面々だった。
「冴香さん。例のカルトの動き、思った以上にキナ臭いですよ」
レオンが低く真剣な声で口を開く。
端末のホログラム画面に映し出されたのは、黒い外套に刻まれた不気味なシンボルマーク――「双頭の蛇と揺籠」。
「新興宗教【深淵の揺籠】……。ここ数ヶ月、昇格試験に落ちた落ちこぼれ学生や、規約違反でライセンスを剥奪された追放者たちを急速に抱き込んで膨張しているわ」
シエラが切れ長の目を細めながら、冷ややかに状況を補足した。
「教義は典型的な終末思想よ。『強者だけが肥え太り、持たざる者を使い捨てる現行の世界樹システムを破壊し、深淵に眠る太古の怪物を神として呼び戻す』……。すべてを原初の混沌に呑み込ませ、平等にリセットすることこそが真の救済だと本気で信じ切っているわ」
「笑えない冗談だな」
鳴神冴香はデスクの脇、腰の刀に手を添えながらまま不快そうに目を細めた。
険しい表情のボルドーが口を開く。
「厳しい探索者ヒエラルキーから零れ落ちた連中の、歪んだルサンチマンの掃き溜めか。……だが、ただの落ちこぼれの集まりなら、ここまで組織的に動けるはずがない。バックに、ギルドや学園の防衛機構を知り尽くした『蛇の頭』がいるはずだ」
「はい。奴らはこの大蒼樹祭の混乱に乗じ、都市の結界中枢を内部から落とす気かもしれません」
レオンが懐から抜いた短刀の切っ先を、空中でクルリと回して見せた。
「どうします、冴香さん? 都市全域に緊急避難警報を出して、祭りを中止にする手もあります。 今ならまだ間に合いますが」
「冗談じゃない」
鳴神は即座に吐き捨た。
「何十万もの観光客や本土からの一般客が集まるメガイベントだぞ。下手に警報を出せば、パニックが起きて奴らの対処どころではなくなる。連中の思う壺だ。……それに何より」
鳴神は立ち上がり、元チームメイトたちを一人ひとり見据えた。
その切れ長の瞳に、かつて深層の魔獣を震え上がらせた元Sランク探索者――『紫電』の獰猛な覇気が宿る。
「うちのクラスの連中をはじめ、生徒たちが一生懸命準備してきた祭りを……あんなゴミどもの都合で潰されてたまるか」
口元には不敵な笑み。だが、その声には一切の妥協を許さない絶対的な覚悟が滲んでいた。
「避難警報は出さん。大蒼樹祭は予定通り、完璧に開催させる。……都市の外縁、地下水路、中枢への侵入路。プロ探索者チームと学園警備隊で『通常の警備体制』を装いながら、ネズミどもを水面下ですべて秘密裏に叩き潰す。一匹たりとも、光の下へ這い出させるな」
「了解」
歴戦のプロたちが獰猛な笑みを交わし、音もなく部屋の闇へと溶けていく。
仲間たちが去った静まり返る部屋で、鳴神は一人、デスクの引き出しの奥から取り出した古い写真をじっと見つめていた。
そこには、若き日の自分と――理知的な眼鏡をかけ、苦笑いを浮かべている一人の男の姿が写っていた。
(……あの結界のバイパス構造を突く手口。まさか、な……)
鳴神は苦く息を吐き、写真を伏せた。
祭りの喧騒の裏で、確実に破滅の秒読みが始まっていた。




