紫電の日常
あの28層での騒動と『剛腕の鉄血隊』の処分から数日が経過した。
学園都市の特務探索研究チームと鳴神先生は、地下最奥のゲートでの任務以降、世界樹ダンジョン各所に痕跡を残す「半モンスターの青年」の行方を総力を挙げて追っていた。
けれど、現れては瘴気だまりを残して煙のように消え去る彼は、まるで空間そのものを滑り抜けているかのようで、いまだ決定的な尻尾を掴めずにいた。
そんな張り詰めた調査が続く中、ぽっかりと訪れた、久々の完全オフの休日。
「うぅ……頭が割れるように痛い……報告書の山が……ゲシュタルト崩壊を起こして……」
鳴神先生の自室――教職員用マンションの一室は、絵に描いたような惨状だった。
調査記録と分析シートの束が床を埋め尽くし、脱ぎ捨てられたジャケットや下着類、エナジードリンクの空き缶のバリケード。
かつて単身で深層を切り拓いた元Sランク探索者――『紫電』と恐れられた歴戦の雷剣士の面影は、ミリ単位も残っていなかった。ベッドの上で毛布にくるまり、芋虫のようにうごめいている。
「先生……本当に、人間としてギリギリの生活をしてますね」
パタパタとスリッパの音を響かせ、エプロン姿の僕――ノアは、呆れ半分、苦笑い半分で部屋を見渡した。
「うっ……ここ数週間、探索現場とギルド本部の往復で、まともに横になって寝ていなかったんだ……」
「知ってます。目の下にものすごいクマができてましたから」
現在は学園都市高等部、僕が所属する支援科Dクラスの担当教官として、そして保護者として僕を引き取ってくれた鳴神先生。
探索者としての実績と信頼の厚さゆえに、今回の未曾有の瘴気災害では特務チームの現場リーダーとして白羽の矢が立ち、文字通り不眠不休で駆け回っていたのだ。
けれど、お互いに任務や授業に追われ、こうして二人きりでゆっくり過ごす時間なんて、これまで一度もなかった。
外食か携帯食糧で生命を維持しているような先生を見かねて、僕から「今日のお昼ご飯を作らせてください」と申し出たのだ。
いつも僕の無茶を庇い、親身になって守ってくれている先生へ、少しでも恩返しがしたくて。
「先生、そこで寝転がってていいですからね。ご飯ができるまでに、軽く片付けておきますから」
「……神か? ノア、君は世界樹の天使か何かなのか……?」
「大袈裟ですよ、もう」
ベッドに沈み込む先生を横目に、僕はまず窓を全開にした。
指先を軽く鳴らし、そよ風を室内に循環させる。淀んだ空気を一瞬で換気し、散らばった書類を風の風圧で綺麗に整頓してデスクの端へ積み上げた。空き缶やゴミを手早く分別してゴミ袋へ放り込む。
そして、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると、案の定、水と栄養ドリンクと賞味期限切れの調味料しかなかったので、来る途中に買っておいた新鮮な食材を並べる。
コトコト、コトコト。
鍋から立ち上る、優しい出汁とお野菜の甘い香り。
卵を溶いて、ふんわりとしたオムレツを焼き上げるパチパチという心地よい音。
小さな身体で一生懸命にフライパンを振る僕の背中を、ベッドから這い出してきた鳴神先生が、毛布をミノムシのように羽織ったまま、ぽやんとした顔で見つめていた。
「……幸せだ」
「え?」
「いや……自分の部屋から温かい手料理の匂いがするなんて、現役探索者時代を含めても何年ぶりだろうと思ってな。……ノア、養子縁組の書類を本気で偽造して私の本当の娘にしたくなってきたよ」
「犯罪はやめてくださいね!? ほら、できましたよ。起きて顔を洗ってきてください」
テーブルに並んだのは、湯気を立てる野菜たっぷりのコンソメスープに、ふわとろのオムライス、そしてシャキシャキの彩りサラダ。
パジャマ姿で寝癖をつけたままの先生は、両手を合わせてスプーンを手に取ると、一口運んだ瞬間に――カチン、と固まった。
「……先生? お口に合いませんでしたか……?」
不安になって顔を覗き込むと、先生の切れ長な双眸から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「おいしい……っ。五臓六腑に染み渡る……優しい……世界樹のどんな秘薬より効く……」
「な、泣かないでくださいよ! よかった、口に合って」
そこからの鳴神先生は、僕の予想を遥かに超えて限界まで怠惰だった。
ご飯を食べ終えると「もう一歩も動けん」とソファに倒れ込み、僕が淹れたハーブティーをすすりながら、ゴロゴロと猫のように寝返りを打つ。
「ノア、リモコン取ってくれ」「ノア、ちょっと頭を撫でてくれないか」「ノア……」と、学園の生徒たちが見たら卒倒しそうなレベルで全力で甘えてくる。
(ふふ……先生、本当に子供みたいだな)
最強の雷剣士として背負い込んできた責任と重圧の大きさを知っているからこそ、こうして気の抜けた姿を見せてくれるのが、なんだかとても愛おしかった。
◇
「ふぅ……おかげで、ようやく頭の靄が晴れたよ」
僕が淹れ直した二杯目の温かい紅茶を口にして、先生はソファに深く腰掛けた。
気の抜けた怠惰な表情が徐々に引き締まり、その切れ長の瞳に、研ぎ澄まされた光が戻っていく。
先生はテーブルの上に広げられた数枚の調査資料へ、ゆっくりと視線を落とした。
「……ノア。君のおかげで脳が回り出したところで、少し現場の『壁』について話しておきたいんだ」
「壁……ですか?」
「ああ。あの半モンスターの青年――災害指定個体の追跡、いや、『確保』が不可能になっている根本的な原因についてだ」
先生はペンを手に取り、ダンジョンの空間図面の上にサラサラと数式を書き足した。
「実は、ギルドの監視網や君の風の感覚があれば、彼がどこかの階層に現れたこと自体を察知するのは不可能じゃない。現に君は、地下20層であの青年の波長を捉えていたんだろう?」
「はい。あの子が次にダンジョンのどこかで活動すれば、世界樹の大気の流れを通じて、居場所が分かるはずです」
「ああ、君のその桁外れな広域探知能力は頼もしい限りだ。……だが、問題はその先なんだよ」
先生は眉をひそめ、険しい表情で息を吐いた。
「20層で目撃した時もそうだったはずだ。……あの個体は追い詰められた瞬間、物理的な逃走ではなく、『空間そのものをすり抜けて別の次元へ溶けるように消えた』んだろう?」
「っ……はい。手を伸ばした瞬間に、足元の闇の裂け目に溶けるようにして……」
「そうだ。あれこそが最大の障壁なんだよ。……転移魔法なら、魔力の詠唱や発動ラグを叩けば防げる。だが、あいつの逃走は魔法じゃない。『生体組成そのものが、世界の位相をすり抜けている』んだ」
先生は一枚の生体検査シートを僕の前に差し出した。
「君を医療センターで初めて精密検査した時のことを覚えているかい? 君の肉体は……細胞や骨格こそ人間だが、その本質はまるで『大気や風という自然現象そのものが、奇跡的に生命の体を成している』ような、極めて特異な構造をしている」
先生は僕が風の精霊だとは知らない。
けれど、一流の剣士としての肌感覚と医療データから、僕の身体が人ならざる自然現象の塊であることを的確に見抜いていた。
「そして、あの青年も完全に同種だ。姿は瘴気に侵されているが、根底にある生体組成は君と同じく純粋な自然現象そのもの。だからこそ、危機を察知した瞬間、彼はダンジョンの空間の狭間へ抵抗なく『すり抜けて』逃げ延びてしまう。……今のままでは、君がどれだけ早く居場所を見つけて駆けつけたとしても、接触した瞬間にまた煙のように消え去られ、永遠に堂々巡りになる」
胸の奥が冷たく締め付けられた。
先生の言う通りだ。僕の風でどれだけ強く抱きとめようとしても、空間そのものをすり抜けられてしまえば、僕の手には何も残らない。
「じゃあ……どうすればいいんですか? あの子の逃走を止める手段なんて……」
「そこで、君の出番だ」
先生の口元に、歴戦の探索者らしい不敵で頼もしい笑みが浮かんだ。
「あいつが空間をすり抜けられるのは、君と同じ特異な組成ゆえだ。……なら、『君の生体組成データ』を解析し、その波長だけをピンポイントに現実空間へ縫い留める【対・特異生命体用 空間固定結界】を開発すればいい」
「空間を……縫い留める結界……!」
「そうだ。君の身体の波長を鏡のように反転させ、空間の位相差を強制的にゼロにする特殊な魔導装置だ。これさえ展開できれば、あいつは空間の裂け目へ逃げ込むことができなくなる。……文字通り、その場に足を縛り付け、完全に隔離・無力化するための隙を作り出せる」
(……これがあれば、ノワールをもう逃がさずに済む)
ぎゅっと、膝の上で握りしめた拳に力を込める。
胸の奥底で、ノアの決意が熱く脈打っていた。
「先生……! その装置、すぐに作れそうなんですか?」
「いや……そう簡単にはいかない」
先生は首を横に振り、苦い表情で図面を指先で叩いた。
「本来なら、世界の位相を固定するような大規模魔導装置なんてものは、設計だけで数年、建造にさらに数年かかる国家予算級のプロジェクトだ。だが――幸いなことに、ゼロから作る必要はない」
「ゼロからじゃない……?」
「ああ。学園都市の地下深くに、かつて世界樹の空間崩壊に備えて保管されていた『旧時代の空間安定器』――そのアーティファクトの基幹フレームが眠っている。基本骨格はその遺物をそのまま流用する。さらに、ダンジョン全域を覆うような恒久的な装置ではなく、現場で遭遇した瞬間、半径数百メートルだけを一時的に縫い留める『使い捨て覚悟の局所用プロトタイプ』に機能を極限まで絞り込むんだ」
「使い捨ての、試作機……」
「そうだ。一度起動すれば過負荷で自壊する前提だが、その代わり開発期間を劇的に短縮できる。……それでも、君の生体波長に合わせた特殊魔導回路の組み換えと、超高負荷に耐えうる触媒の加工・同調試験には、学園とギルドの技術班総出で突貫工事を行っても、およそ三ヶ月はかかる」
「三ヶ月……」
短くはない時間に、僕は小さく息を呑んだ。
けれど先生は、冷静な探索者の目でその理由を淡々と並べる。
「医療班の生体分析によれば、あの青年も瘴気による肉体の激しい拒絶反応で、相当な深手を負っている。深淵の底で傷を癒やし、再び活動を再開するまでには、少なくとも二、三ヶ月の潜伏期間――休眠期が必要になるはずだ。焦って捜索隊を突入させても、警戒されてさらに底へ潜られるだけだ」
先生は窓の外、静まり返る世界樹の巨木を見上げた。
「向こうが動けないこの三ヶ月間こそが、奴の逃走ルートを断つ最初で最後の猶予なんだよ。あいつが傷を癒やして再び水面に顔を出すその時までに、私たちは確実に逃走を阻む『檻』を完成させる。だからノア……」
先生は静かに立ち上がり、僕の頭にポンと温かな手を置いた。
「君は、君の日常をしっかり生きなさい。友達と笑い合って、学園で学び、支援科としての経験を積むんだ。……いざあの特異個体と対峙することになった時、君が巻き込まれて傷つかないようにな」
「……はい、先生」
僕は小さく頷き、微笑んでみせた。
先生は僕をただの無力な被保護者として、守るべき教え子として気遣ってくれている。
その優しさが嬉しくて、温かくて――けれど、僕の胸の内にある覚悟は、その先を見つめていた。
(待っててね、ノワール)
先生たちが空間を縫い留める鍵を完成させてくれるその日まで。
次に出会った時こそ、二度と君の手を離さないように。
大精霊様やみんなの力を集めて、君をあの暗い闇の底から絶対に救い出すために――。
僕は一人静かに、胸の奥で誓いを新たにしていた。
こうして――ノワール救出への確かな布石を心に秘めながら、僕の賑やかで少し騒がしい学園生活が、再び動き出すこととなった。




