怒りの一撃
上層22層の巨大な空洞通路は、阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。
「ひ、ひぃぃぃっ! 来るな、あっち行けぇぇぇ!!」
血眼になって逃げ惑う『剛腕の鉄血隊』の五人。
その背後から押し寄せていたのは、異様なまでに膨張し、黒紫の瘴気を全身から噴き出す変異モンスターの――おびただしい大群だった。
狼型、巨猿型、甲殻類型。
本来ならば生息域の異なる凶悪な捕食者たちが、理性を完全に焼き切られ、ひとつの真っ黒な津波となって通路を埋め尽くしている。
「くっ……! クラリス、クローディア、迎撃します!彼らを背後に回しなさい!」
氷華がレイピアを抜き放ち、前線へ飛び出す。
刃の切っ先から極低温の冷気波を放ち、先頭を走る変異狼の四肢を凍てつかせるが――。
バキィィンッ!
「なっ……!?」
凍りついた肉体を意に介さず、怪物は自らの凍結した脚をもぎ折るような勢いで前進し、血走った顎を突き出してきた。
痛覚すら麻痺させるほどの濃厚な瘴気の防壁。普段の魔獣とはまるで強度が違っていた。
「ノアさんを探す道中だというのに……なんて数ですの! 燃え尽きなさい――『紅蓮の渦』!」
クラリスの杖から放たれた極大の火炎竜が、押し寄せる巨猿の群れを呑み込む。
だが、その炎の熱波が、前線で斬り込もうとしていた氷華の視界と刀身の冷気をわずかに揺らしてしまう。
「くっ……!」
「ああっ、申し訳ありません氷華さん!」
「……かまいません!」
二人の息が、致命的に噛み合わない。
氷華の極氷と、クラリスの業火。
本来なら互いの属性が反発し合い、魔力が干渉して効果を相殺しかねない相反する二つの力。
普段の戦闘では、氷華の冷気を阻害しないよう、そしてクラリスの炎が味方を巻き込まないよう、ノアの紡ぎ出す繊細な気流の壁が絶妙に魔力同士の干渉を遮断し、完璧に調和させていた。
味方の術式同士がぶつかり合わないよう風で仕切り、敵への迎撃だけをピンポイントに通す――そんな神業のような環境制御が失われた今、互いの魔法がわずかにブレーキをかけ合ってしまう。
さらに、前線を強引に支えるクローディアにも限界が近づいていた。
「チッ、キリがねえぞ! 吹き飛びなッ!」
大剣を全力で振り抜き、巨猿の頭部を叩き割る。
だが、普段ならクローディアの踏み込みに合わせて足元に吹き抜けていた追い風がない。重い大剣を振るうたびに遠心力と負荷が直接両腕と腰にのしかかり、一撃ごとの隙が目に見えて大きくなっていく。
その硬直の隙を、別の怪物が獰猛な鉤爪で狙い撃ってきた。
「クローディアちゃん、危ないっ! 『アクアバリア』!」
間一髪、マリンの展開した高圧水流の盾が爪を弾く。
だが、クラリスの放った熱波の余波で水流の密度が乱れ、盾は一瞬で砕け散った。マリンは反動で後方へと吹き飛ばされる。
「くぅっ……! 重い……っ!」
「マリンさん!」
四人の連携が、目に見えて軋みを上げていた。
それぞれが学園の頂点に君臨する俊英であり、プロの探索者。個々の技量は疑いようもなく一流だ。
だが――今、決定的に欠けているものがあった。
(……息が、合わない……!)
氷華は唇を強く噛み締めた。
足元の微妙な踏み込みのブレ。間合いを詰める際のわずかな速度の遅延。
互いの魔力が干渉して起こるロス。疲労の蓄積。
普段なら、そのすべてが「意識する前に整えられていた」のだ。
呼吸を合わせずとも阿吽の呼吸で背中を預け合えたのは、四人の間を絶妙に循環していた、あの目に見えない優しい風のおかげだった。
魔力同士の干渉を遮断し、敵の初動をミリ単位で狂わせ、味方の踏み込みに完璧な追い風を添え、疲労を散らし、痛みを和らげてくれていた彼女の支援。
それが失われた今、ただ敵の物量を力技で捌くだけの消耗戦を強いられている。
ノアの支援が、どれほど規格外で、どれほど自分たちを生かしてくれていたのかを――四人は骨の髄まで痛感していた。
「ノアちゃんの支援がないだけで……こんなに、苦戦するなんて……っ!」
マリンが苦渋に満ちた声を漏らす。
その一瞬の乱れを、変異種の群れは見逃さなかった。
瘴気を帯びた巨猿が三頭、同時に跳躍し、防衛ラインの薄くなったクラリスへと凶爪を振り下ろす。
「しまっ……! 詠唱が間に合いませんわ……!」
「クラリスさんッ!!」
氷華が叫び、クローディアが大剣を振るおうとするが、殺到する前衛に阻まれて届かない。
絶体絶命の光景が、スローモーションのように引き延ばされた――その、刹那だった。
――ヒュオオオオオオッッ!!
空洞の天蓋を突き破り、息を呑むほど鋭く澄み切った、翡翠の暴風が吹き荒れた。
『――吹き飛べ』
静かに、けれど世界の理を書き換えるような声が響き渡る。
次の瞬間、通路全体を満たしていた重苦しい瘴気が、一瞬で圧殺された。
神速の風刃が幾重にも折り重なる巨大な旋風となり、クラリスに迫っていた巨猿を、後方に控えていた数十体の群れごと根こそぎ呑み込んでいく。
肉を断ち、骨を砕き、瘴気そのものを塵芥へと吹き飛ばす圧倒的な嵐。
わずか一呼吸の間に、あれほど四人を追い詰めていた群れの津波が、文字通り跡形もなく消滅した。
「な……っ!?」
「今のは……風属性の、上位魔術……!?」
氷華たちが呆然と目を見張る中、緑の光脈をまとった黒い外套の影が、大気の足場を踏みしめて音もなく舞い降りた。
なびく黒いマントと顔を覆うのは、白い仮面――『翠光の仮面』。
だが、息を呑む暇はなかった。
群れの後方、洞窟の最奥の岩壁を粉砕しながら地響きを立てて這い出てきたのは――群れを率いていた主、山のように巨大な瘴気の変異巨塊だった。
「グオォォォォォォンッ!!」
禍々しい黒腕が、逃げ遅れて腰を抜かしていた『剛腕の鉄血隊』――リーダーの豪島を目掛けて振り下ろされる。
「ぎゃああああっ! た、助けてくれぇぇぇっ!!」
豪島がみっともなく頭を抱えて悲鳴を上げた。
その無様な姿を前にして――僕の足が一瞬、止まった。
(……助ける?)
胸の奥底で、冷酷な思考が過る。
あいつは僕を「お荷物」と切り捨て、この手からすべてを奪い、死の底へと突き落とした張本人だ。
今ここで見殺しにすれば、何の罪にも問われず、因果応報としてあの男は消える。復讐などしなくても、放っておくだけで僕の過去は清算されるはずだった。
――トクン。
心臓の奥が、温かくざわついた。
アルトとしての冷めた諦念の底から、ぽかぽかと柔らかな光が湧き上がってくる。
(……そうか)
僕の中のノアが、あんな奴でさえも、目の前で命が散るのを嫌がっている。
助けたがっているのを、魂の芯で確かに感じる。
(うん、そうだよね。やっぱり……助けなきゃ!)
最初から分かっていた。
僕は、どんなに理不尽な目に遭ったって、目の前で助けを求める人間を見捨てられるほど非情にはなりきれないのだから。
「――止まって」
パチン、と指を鳴らした瞬間、変異巨獣の四肢に大気の手枷が嵌め込まれ、振り下ろされかけた巨大な腕がピタリと空中で停止した。
「ひ……っ!?」
死を覚悟して目を瞑っていた豪島の前に、白い仮面の影が、コツ、コツと靴音を鳴らしながら歩み寄る。
仮面の奥から、低く、けれど静かに通る声が紡ぎ出された。
「……【一ノ瀬アルト】は、知ってる?」
ピクッと、豪島の肩が跳ね上がった。
後ろでへたり込んでいた鉄血隊のメンバーたち全員の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「な……ん、で……その名前を……」
名前は、ちゃんと覚えているみたいだ。
忘れるはずもない。自分たちが保身のために見殺しにした男の名前なのだから。
クラリスやクローディア、マリンが怪訝な顔で見つめ合う中、氷華が目を見張り、ハッと息を呑んだ。
「……その名前、聞いたことがあります。数ヶ月前、ダンジョン内の不慮の事故で行方不明となり、そのまま死亡扱いとなった、本学園の学生……一ノ瀬アルト」
氷華の冷徹な理知が、恐ろしい速度で点と点を繋いでいく。
「そして――その学生が、最後に所属していた学生クランが……『剛腕の鉄血隊』」
「「っ……!?」」
クラリスとクローディア、そしてマリンの表情が一変した。
「まさか……」と絶句し、ゴミを見るかのような軽蔑の眼差しが鉄血隊へと突き刺さる。
すべてを察された豪島は、狂ったように首を横に振り、見苦しく叫んだ。
「ち、違う! あれは仕方なかったんだよ!! ああしなきゃ、俺たち全員があそこで殺されてたんだ! 仕方なかったんだよぉぉぉっ!!」
みっともない自己弁護の絶叫。
その声が洞窟に木霊した瞬間――。
ドッゴォォォォォンッ!!
「ギャオォォォッ!?」
縛られていた巨大な変異巨獣の核が、目にも留まらぬ風の圧縮弾によって内側から完璧に撃ち抜かれ、断末魔とともに粉々に吹き飛んだ。
あれほどの巨塊が一瞬で消滅した事実に、鉄血隊の面々は声すら出せず、顎をガタガタと震わせる。
冷たい静寂の中。
仮面の僕の口から、ぽつりと小さな言葉が零れ落ちた。
「……一発」
「え……?」
「一発だけ」
感情の抜け落ちた声。
だが、その奥には、アルトとして踏みにじられた日々と、理不尽に耐え続けてきたすべての想いが込められていた。
「一発だけだ……っ!!」
ズダンッ!!
風の爆発的な加速が地を蹴った。
次の瞬間、豪島の視界から仮面の姿が消え――その眼前に、握りしめられた小さな右拳が現れていた。
ゴパァァァァァッッ!!!
「ぶげっ……!?」
鈍い打撃音とともに、豪島の巨体が木の葉のように宙を舞った。
風の推進力を乗せた渾身のストレートが、男の歪んだ顔面にクリーンヒットする。
豪島は鼻血を撒き散らしながら放物線を描き、十数メートル先の岩壁へと派手に激突して、白目を剥いて崩れ落ちた。
「リーダーぁぁぁっ!?」
岩屑がパラパラと落ちる中、豪島はピクリとも動かない。
拳を振り抜いた姿勢のまま、僕はふぅーっと細く息を吐き出した。
(……あ、痛い……殴った方の手、じんじんする……)
生まれて初めて本気で人を殴った感触。
手の甲の鈍痛にちょっとだけ涙目になりながらも――けれど、胸の奥につかえていたドロドロした塊が、綺麗さっぱり消し飛んだような、信じられないほどの爽快感が体を駆け巡っていた。
僕は痛む右手をぶらぶらと振り、へたり込んでいる鉄血隊の残党たちを仮面の奥から見下ろした。
いつものノアのように優しく微笑むことも、アルトのように俯くこともしない。
ただ、悪口なんて人生で一度も言ったことがないせいで、自分でも驚くほど拙く、ぎこちない調子で――けれど精一杯の意地を込めて、小さく吐き捨てた。
「……ざ、ざまあみろ、だからねっ!」
「「「…………え?」」」
静まり返った洞窟に、妙に可愛らしい捨て台詞がぽつんと響き渡った。
後ろで見ていた氷華、クラリス、クローディア、マリンの四人が、揃って目を丸くしてあっけに取られている。
あの規模の上位魔術を操る謎の魔術師が、いきなりチンピラを殴り飛ばしたと思ったら、舌っ足らずなお怒りボイスを繰り出したのだ。空気が完全にフリーズしていた。
(わ、恥ずかしいっ! なんか変な言い方になっちゃった……!)
仮面の下で顔中が真っ赤に沸騰するのを感じながら、僕はそそくさと踵を返し、その場から離脱しようと風の推進力を足元に集めた。
「ま、待ちなさい……!」
我に返った氷華が、切迫した声を上げて一歩踏み出してくる。
その青銀の瞳には、かつて救われた記憶への強い憧憬と、目の前で起きたあまりにも奇妙な光景への深い困惑が、激しく入り混じっていた。
「貴方は一体……なぜ、学生の名を……? 待ってください、翠光様――!」
伸ばされた氷華の手。
けれど、これ以上の接触は正体がバレかねない。
「……じゃあね!」
仮面の隙間から短く別れを告げ、僕は跳躍した。
翡翠の暴風が巻き起こり、氷華の伸ばした指先をすり抜ける。風の粒子がふわりと光の軌跡を描き、次の瞬間には、空洞の天井の裂け目へと完全にその姿を掻き消していた。
「あ……」
氷華が虚空を掴んだ手を下ろし、呆然と天井を見上げる。
「行っちまった……相変わらず、風みてえに掴めねえ奴だな……」
「ですが……いつもどおり見事な魔術でしたわ。それにしても、最後の台詞は……一体何でしたの?」
「うーん……超絶カッコよかったけど、最後ちょっと可愛くなかった……?」
三人が首を傾げる中、氷華だけは胸元をぎゅっと押さえ、風の去った残香をじっと見つめていた。
◇
それから間もなくして。
「みんなー! よかった、無事だったんだね!」
息を切らし、心配そうに駆け寄ってきたのは――仮面を外し、衣服を少し汚しただけの、いつもの支援科のノアだった。
「ノアさん……っ!」
「ノアちゃん! 無事だったんだねぇぇ!」
氷華に抱きとめられ、マリンたちに代わる代わる頭を撫で回されながら、僕は胸を撫で下ろした。
モンスターの討伐任務は、最後に残った素材の回収も含めてマリンたちが無事に完了。
そして地上へ帰還した直後――ギルドと学園による厳格な鉄槌が下された。
気絶した豪島をはじめとする『剛腕の鉄血隊』は、生徒会長である氷華の主導のもと、即座に特別取り調べ室へと連行。
過去の探索記録の徹底的な洗面と、通信ログの復元により、アルトに対する悪質な装備強奪・意図的な囮遺棄だけでなく、下級生探索者への脅迫や獲物の横取りなど、数々の悪質な余罪が白日の下に晒されたのだ。
結果は――全会一致での【即時退学処分】、およびギルドからの【探索者ライセンスの永久剥奪】。
彼らが何よりも執着し、驕り高ぶっていた「探索者としての輝かしい未来」は、跡形もなく完全に粉砕されることとなった。それと同時に逮捕、拘束されることとなる。
その後、地上に戻ったことで通信が復活したマリンの配信は大フィーバーを巻き起こしていた。
《配信復活キターーー!!》
《おい待て、22層の変異モンスター群壊滅したってマジ!?》
《翠光の仮面が現れたらしいぞ!!》
《うわああああ見たかったぁぁぁ!! 生配信で映してくれよマリンちゃん!!》
《鉄血隊とかいうクラン、悪事がバレて永久追放されたらしいぞw》
《それよりノアちゃんが無事で本当によかった……!》
《ノアちゃん天使! マリンちゃん最高のコラボをありがとう!!》
同接は過去最高記録を叩き出し、コメント欄はお祭り騒ぎの絶賛の嵐。
コラボ配信は大成功を収め、ネットのトレンドはノアの愛らしさと『翠光の仮面』の伝説で埋め尽くされていた。
「ふふ、大騒ぎになっちゃいましたね」
夕暮れに染まる寮への帰路。
隣を歩く氷華が、ふと僕の横顔を見つめ、どこか柔らかな笑みを浮かべた。
「ノアさん。……本当に、お疲れ様でした」
「はい。……お疲れ様でした、会長」
僕は微笑み、夕焼け空にまだ少し感触の残る右手をかざした。
過去の呪縛は、あの渾身の一撃とともに完全に吹き飛んだ。
もう僕の足を引き止めるものは、何一つない。
(待っててね、ノワール)
澄み渡る風の気流を感じながら、僕は大切な家族を救い出すための未来へと、真っ直ぐに視線を向けた。




